忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

宿題

 ネット時代の文章考

 この日記も書き始めのころに比べ、現在はできるだけ文章の体裁をとるようにしている。というのも、過去に書いたものを読み直していなかったと気づき、それを実際やってみたら、自分で書いたはずなのに意味を掴めないという情けない事態に直面したためである。それで、ぼんやりとでもいいから理路をたどれる程度には書くことにした。そのこととは別にぼくの生活にある変化があり、日々、こころに去来することをこれまで以上に丁寧にことばにしてやっていこうと思い立ったということもあったわけだが、それについては詳しく書こうとは思わない。

 読み返していた時、あることに気づく。それは自分の文章の無個性さだった。自分で書いたものを読んみ返してみたときの面白さ、呆れといったものは感じた。が、それ以上に無個性な文章にはちょっとショックを受けた。書かれている内容がありきたりであることは認めるが、それを無個性といいたいわけではない。内容が凡庸なのはぼくの責任ではあろうが、顔の見えない文章とでもいうべき、この有様はなんなのだろう。それはぼくのせいなのだろうか?

 ネット時代の文章とはこういうものではないのか?と開き直ってみる。ニュースサイトという呼び方であっているかは知らないが、そういったサイトにある、きっと名も実力もあると思われるひとの文章などを覗いてみても、そんな感じがする。書いたひとの名前を伏せて文章を読んで、著者を当てることはおそらくぼくにはできない。自分の読解力に難がある可能性は否定しないが、果たしてそれだけであろうか?

 とはいえ、文章が無個性であることに何か問題があるのかといえば、全然ない。むしろ、読みやすくなっているような気すらする。ただ、そのことが少し寂しい。ぼくが過去に好んで読んできたひとの文章には味わいがあった。実に、それは曖昧なものかもしれないけれど、ちょっと語弊のある言い方をすれば、有名無名、ジェンダーを問わず、そのひとたちの持つ文体から放たれる香りは欲情を掻き立てる性的な魅力をはらんでいた。その抗しがたい魅力に耐えるのもだれかのことばにふれる楽しさと思っていたのだ。懐かしんでも仕方ないか。それに、今でも独特の文体のあるひとはいる。入間人間さんの文章なんかは最近初めて読んだが、かなり好きだ。これからも、そうした文章に出会う喜びはきっと訪れよう。

 ぼちぼちまとめにはいる。ざっくりと断言するのは好みではないが、ネット時代の文章は読みやすく、十分に意味を伝えることはできているので、良い薬にはなるが、悪いおくすりにはなれない、そんな気がする。ことばを道具として見た場合、良い薬であることは好ましいのだろう。いや、こうした文章に難癖をつけているぼくが愚かであるのかもしれない。ことばに意を伝える道具以上のものを期待するのが間違いなのだ、といった具合にいい加減に筆をはしらせていると違和感があらわれる。腑に落ちないという感覚。

 ことばは意を伝える道具であるというものの見方、心的な構えについてどうにも解せないところがある。一見、合理的なことば観に従って、それをいざ実行しようとすれば、尋常な意志では貫くことができないのではないか?効率を目指し、多大な労力を要する。これを当世ではコスパが悪いと言う。ひとさまの文章についてはあれこれ言うつもりはないが、少なくとも、ぼくの文章に欠けていたのはこの意志なのだと思う。その結果、無個性な文章になったかは判然としない。

 前置きがようやく終わった。なぜニュースサイトの文章にそれほど関心があるわけでもないのに、こんなことをだらだらと書いてきたのか?宿題を少しずつ片付けようと思っていたからだ。もののあはれの話だ。宣長のいう「もののあはれをしる」。これをどう理解するのかという宿題。彼のようなものの見方もきっと尋常な意志では徹底できない、そのように考えてみた。センチメンタルな感情に溺れることではないという意志をはっきりもってこころに迎えたとき、そこに生まれるものが「あはれ」ではないのか、と。

 

 今日はこの辺にしておこう。

 この話とは別に、サブカル批評について思うことを書こうと思っていたのだが、もう遅い、寝よう。