忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

ちょこっとメモ

 昨日の『安達としまむら』の感想の続きではない

  島村を通して語られる入間さんのこども観?

 「馬鹿で無防備」というこども観、これに出会っただけでも、『安達としまむら』を見た甲斐があったと言える。これは本当にそうだなと思える。そのことばに続けて語られる「どうして生きてこられたのか」。これもまさにその通りだなと思える。

 このこども観を敷衍すると『魔女の宅急便』なんかも面白いかもしれない。なぜキキは魔法が使えなくなったのか?馬鹿で無防備だったキキは魔法を使えた。ところが、魔法の力に恐れを感じ、使えなくなった。馬鹿で無防備なこともが大人になったということになるのかもしれない。そして再び魔法を使えるようになる。これはきっと魔法の恐ろしさを理解して尚、使っていきたいという意志のあらわれではないのか?

 

 島村に見られる自分に対する理解の不思議

 島村は自分を薄情な人間と思っているようだが、これは違う。この点に関して言えば、島村は信頼のおけない語り手になっているのかもしれない。げんになんだかんだいっても島村の周りにはひとが集まってくる。こういうひとはけっこうどこの学校や職場、家庭にもいるんじゃないだろうか?ぼくはそういうひとに嫉妬しないが、嫉妬したくなくなるくらいひとを集めてしまうみたいなやつがいる。信頼のおけない語り手ではないかも。島村の自分に対する理解と周りからの理解にずれがあるということだけかもしれない。こういう部分の描き方は著者の持ち味なのかと思うが、うまいなと思う。日野の描かれ方についても同様にうまい。日野のああいう一面を知っているのは永藤だけなのだろう。

 

 ヤシロとエレン

 知我麻社の自由はだれからも、なにからも期待されないゆえと思っている。また社もだれにもなににも期待をしてないのだろう。島村への関心は例外かと思う。(ドーホー救出後、地球を侵略する予定があるのだとしたら、その関心はきっとあだとなる。)『進撃の巨人』のエレンもそれに近いのかもしれないと思った。今はもうマガジンのほうはおってないのだが、ぼくが読んでいた時点で「地ならし」を開始していた。エレンはすべての人間関係を断ち切って自由になったのではないか。

 このことについてははっきりとは自分では言い切れない。情けない話だが、それはそうで、今のぼくにとって具体的な人間関係より大切なものはなく、ものすごく放言してしまえば、社会がどうなろうと、世界がどうなろうと知ったことではないという感覚はあるわけで。そうした具体的な人間関係を喪失したら、エレンが行ったような「地ならし」にも抵抗感がなくなるではないかと思わなくもない。ところが、ぼくはエレンが抱えるような憎悪を持ち合わせていないので、社会や世界を壊そうとは思わない。それだけの話で無関心ではある。とも言い切れないか。香港とかの話は少しに気になっているな。

 まあ、この見方は著者に大いに裏切って貰いたいとは思うけれど、「地ならし」を行ったエレンが自由の奴隷になっているという見方はぼくには面白くないので、このへんがぼくの妄想とは違った形で自由の奴隷論に一撃を喰らわせる展開になっているといいなと期待しながら、ファイナルシーズンを見るとしよう。

 

 忘れていたこと

 犬に歌をおくる

 木枯らしにふるえる瞳のその先を

 追うこともなく追われることもなく