忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

雨が降る

 日記のタイトルを天気しようかと考えた。相変わらず読み返してはいない。それでも、読み返す場合を想定して、天気と「メモ」のどっちがいいのだろう、と考えてみるとどっちでもいいような気がする。

 

 ドラマ『新聞記者』はかなり話題になっているようだ。アクチュアルという評言を見かけ、なるほどと思った。

 

 平成から令和になって、もうすっかり忘れてしまった人もいるだろうけれど、オウム事件というものがあった。ぼくにとってはアクチュアルな問題なのだが、世間ではそうでもないのだろう。アニメファンなのでアニメの話に無理やり持っていくと『PSYCHO-PASS』、『進撃の巨人』はどちらもかならずしも主題とはいえないまでも、オウム事件を連想させるものがあった。

 槙島にも、エレンにも、麻原的要素をうかがえるのだ。(この指摘があったアニメ評は非常に少ない。たぶん、そう感じていても、書きづらいところもあったでは?と思う。ぼくはすでにそういう感想を目にしていた分だけ、その心理的ハードルはさがる。)

 大雑把にいってしまうと、いつの世の社会にもうっすらと広がる不安やら憤懣があり、その解体者として彼らはあらわれるという感じ。昨日、お茶を濁して書かなかったのはこのことだ。地ならしを行ったエレンに対する反感はすごかったけれど、やはり共感もあった。その光景を目にして、ぼくはすこし戸惑う。みんなが忘れたかったことではなかったのか?まあ、若い世代、20代以下とかだと生まれてもいないので、そういうものか、とも思うが。ところで、トーヨコ界隈とはなんぞね?トーヨコのれん街なら知っているぞ。

 エレンはやはり英雄ではないのだ。ぼくはエレンが好きだけどね。

 それとぼくにはよくわからないこと、このような使命をもって生きた人間とはなにか?さっぱりわからん。だから、気になるのだと思う。

 この話はおしまい。

 

 昨日の日記から削除したこと その2

 方法論的地ならしというものはぼくはあると思う。たとえば、脳内地ならし。ひとりで人知れずやるのだ。(ぼくがそれをやりたいという話ではありませんよ。)

 しかし、そういう論を唱えるとしたら、重要な点はその主張をあくまでも、自分の主張としてなされる場合に限る。誰かの代弁としては可能であっても、迫力は消える。

 「方法論的」という文字列を目にして、よくわからんと昨日、思ったのである。その文字列がネタとしてくらいの軽い意味合いだったら、興味は持てないかもだ。

 しかし、なんだ。どぎついことばの応酬という見方にも違和感があるな。吉本のオウム擁護発言と世間的には受け取られたもの、そこに、彼にしてみれば、世間に向けてどぎつい極端なことを言ってやったみたいな意識は皆無。露悪趣味とは根本から違う。いろいろものが一緒くたにされて、わけわかめ(死語)みたいな社会はぼくは嫌だな。お前が気づかないだけで、すでにそうなんだといわれると困る。寝る。

 

 大事なことを書き忘れた。アニメにはアクチュアルな問題を扱っているものがあると言いたかった。ぼくはそういう見方をすることは稀であるが、それはまた別の話になると思う。