忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

映画『天気の子』について

 小説もあるようだが、読んでいない。また、昨日が初見だったし、録画もしていないので確認する手段もなく、かなりいい加減な話になってしまうが、覚えているうちに書いておこうと思った。

 この作品に限らず、そもそもぼくは作品のもつ社会批評性には関心がないので、ある作品の面白さの半分を捨てているようなところがある。『天気の子』に関して言えば、「雨」が何を意味するのか?とか、拳銃は何を意味するのか?とか、ホテルでこどもたちが食していたものは「若者の貧困」をあらわしているのか?とか、そういう作品に込められた社会に対するメッセージを考えてみようと思わない。前はそうでもなかったのだけれど、いつのころからか、そうなってしまった。

 それでも、この作品についてはいくつか考えたことがある。考えたというか、見ていてこれはなんだ?というひっかかりが気になったということなだけかもしれない。

 

 「天気の子」はどういう存在なのか?

 まず、気になったのが、「天気の子」とは何か?ということ。序盤の占い師?さんへの取材では晴れと雨のふたつの現象を引き起こす存在が示唆されていたが、作中では晴れのほうしか明確には描かれてなかった。天野陽菜が祈ると雨があがり、日が差していたのに、作中の雨は異常気象と表現され、雨を引き起こすことのできるひとは出てこない。「天気の子」は晴れにはできるのに雨にはできないのか?そのことが気になったのである。それで勝手に仮定したのが、描かれていないだけで、雨女、雨男のような存在は作中に存在するのではないのか?ということ。そして、それはだれか?ということ。これは後述する。

 

 「天気の子」は何人いるのか?

 それにつながる疑問として、では天気の子は天野陽菜の他に何人いるのか?ということ。この問題を考えるためのふたつのヒント。須賀圭介が刑事とのやり取りの中で流した涙、神社での待ち伏せについて考えてみたい。

 まず、涙の意味から考えてみよう。ぼくの記憶では、刑事から圭介が陽菜が人柱になって東京の空が晴れたと聞いた場面だったと思う。では、その涙は陽菜のために流したものなのか?それはそうかもしれないが、もうひとつの可能性として、圭介が妻明日花を思い出して、流した涙だったのではないのか。そして、明日花も天気の子で人柱になったのではないかと考えた。

 で、連想したことが圭介はその悲しみから雨男になってしまったと推測したのだけど、これはちょっと無理があるだろうか。でも、仕事場の窓を開けて、そこを水浸しにするシーンが妙にひっかかるのだ。自分が降らせた雨を自分で引き受けたと解釈した。正直、この解釈はあまり自信はない。

 もうひとつの神社の待ち伏せについて。それが可能だったのは晴れ女にとって廃墟の屋上の神社が重要な場所であると圭介が知っていたからではないのかということ。明らかに、初見でおかしいと思った。ご都合主義というよりも、その解釈のほうがしっくりくるのではないのかと。で、なぜ知っていたのかといえば、明日花が晴れ女であったからということなのだろう。

 では、晴れ女は天野陽菜と須賀明日花のふたりだけなのか?もうひとりいると思った。陽菜の母。これは根拠はまったくない。なんとなくそう思っただけ。

 晴れ女が3人、雨男が1人。そんなことを思った。

 

 雨は異常気象ではなく、この世界では通常状態ではないのか?

 これは終盤で圭介、老婆が帆高にかけたことばから思ったこと。あのことばは免罪符ではなく、事実だと。雨が通常状態なんておかしい、現実離れしてると思われるかもしれないが、ぼくはフィクションの力を信じる。

 

 考察というほど上等なものではないが、そんなことを考えた。柄にもなく、そんなことをしたのはただの気まぐれ?どうなんだろう?でも、「大人になれよ」ってことばはびしびしきたな。圭介はあのことばをだれに言っていたのか?帆高?圭介自身?その両方だと思う。3年後の圭介の風貌の変化。ちんぴらごぼう風じゃなくなっていた。大人になったのは圭介だったのだ。(プライベートと仕事がごちゃ混ぜの場所から小ぎれいなオフィスへの変化も圭介が大人になったことを示唆していたのだろう、とぼくはうけとった。)こんな感想を書いてしまう時点でぼくは新海作品を卒業しなければいけないのかもしれない。ただ、『君の名は。』はまだ見ていない。が、そもそも、やはりぼくはセカイ系にあまり興味がないのかもしれない。