忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

昨日の続き

 コロナ禍で自然が意志をもって人間に罰を加えたと考える人はそう多くはないだろう。僕でもそのようには考えない。でも、これに似たことは自分でも思うことがある。それはこの世界が僕を生かしているのだという感覚。なぜ自分のような人間が生かされているのだろうという感覚。これは自分の意志とは関係なく、あちらさまのお陰という。たいして悪いことをしているの気はないけれど、自分の意志で生きているというよりは生かされているというほうが実相に近い感じがしている。

 そうすると以前に松任谷由実の歌で子供のときいた神様のことが思い出された。大人になってもきっとそばにいなくなったわけではないのだな。願い事を聞いてはくれないが、そばにいて生かしてくれているのだな。そういうふうに思われる。実はたいして年を食っているわけでもないのにそういう思いが日増しに強くなる。コロナ禍が影響したのだろうか・・・

 でなにが昨日の続きかというというとSAOについて。アリシゼーションだったかしら?あの世界そのものが意志をもっているように、その中のNPCでいいのだろうか?も意志をもつというような。そういう意思を感じたとき、ひとは世界に違和感を抱くという感じじゃないだろうか・・・まあ、わからんですな

 運動会なんかでなんか声援とかがさっきよりも遠くのほうから聞こえてきて、最後の力を振り絞れた的な。まあ、こういうことはきっと科学で説明がつくことなのかもしれないけれど、説明がついたことがこの世界に対する違和感を解消することには少なくとも僕の場合にはない。

 ということでSAOの見どころについて考えてみたという話。

 で、科学で思い出したけれど、これは日本の為政者に限らず、コロナ禍でやたらと「科学」という言葉を耳にした。この「科学」って科学を信仰するということではないよね?という一抹の不安あり。まあ、これもよくわからん。

 『サイコパス』というアニメが苦手な理由と重なる。科学が出した答えに倫理的疑義を抱いてしまった場合、ひとはどうすればいいのかというような。シュビラシステムに対する疑義。コロナ禍でそうした問題にぶつかることはないのだろうか。今後、政策判断の材料にAIを採用するとなったら、どうか?サンデル先生に聞いてみよう!