いかにして政治に関心がなくなったのか
正確には政治そのものへの関心ということはでない。政治報道に関心がないというほうが正確だろう。これは私の見当違いであるかもしれないけれど、まず、今の政治報道について、ナベツネのこどもたちによる報道だと私は思っている。これは読売の記者に限られた話ではなく、どこの社に所属していようがナベツネのこどもたちという認識。派閥密着型。派閥の代弁者。派閥のスポークスマン。
例えば、最近お話でいえば、都知事、府知事が緊急事態宣言を促すような発言をしたある民放の夜10時のニュース。あからさまに都知事に批判的なコメントをする記者。そのコメントは政府関係者の発言を引用する形で行われる。
これが政治報道なのだとしたら、やはり私には関心が持てない。
もっとはっきりするのは政局の時。これは記者に限らず、評論家とかにも言えるわけだけれど、彼らが自ら進んでその権力闘争の中に飛び込み、それぞれの背後の人の利益を代弁する。ひどい場合は人格攻撃のようなものまである。
私はそんなことを知りたくてニュースを読んだり、見たり、聞いたりするのか?
私の場合は政治不信といえば、そうなのだろうが、それ以前に政治報道不信なのだ。右も左もない、与党も野党もない、どっちの報道についても何か自分の知りたいこととはずれたことを教えてくれるのだ。
まあ、それが報道すべてに言えることではないので、有用な情報もあるわけだけど。
これとは別に権力擁護、批判のどちらの言説についても何かいまひとつのみこめないことがおおい。これはなんなのだろう。それは政治で解決するべき問題ではない、という疑問がわくというのがまずあるのだけれど、どうもそればかりでもないような。こんなことをいうとだれかに怒られるような気もするが、もしかして今の日本には政治課題(内政課題)というものがないんじゃないかと。これまた、そんなわけはないだろうと怒られるかもしれないが、日本と限らず、香港で民主主義のために自殺した若者がいたと聞いたとき、そんなのおかしいじゃないかと私は思うわけだ。身捨つるほどの民主主義ありや。
それで思い出した。寺山修司とサブカル。私の先生がものすごく寺山が好きだったので、勧められたのに、大して見ていない。見てみようかと今更ながらに思う。