忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

ひとつの規矩

 これはいつの間にかそうなったというだけで、なにかものすごく大事にしていることではないが、自分よりも若い人は批判しないというのがあった。歳を重ねるにつれ、どんどんわたしよりも若い人がふえていくと、なんだか窮屈な気がしないでもない。テレビを見なくなった理由は結局はつまらないから、ということにつきるだけれど、自分よりも若い人も結局、テレビというものの枠にとらわれているのを見ると寂しい気持ちになるからだった。若い者の感性とかまったく期待できないものだなと。思えば、自分もそうだったのだから、ひとのことは言えない。

 それでも、いつのころからテレビの面白くなさかげんは度し難いレベルになっていた。だれか特定の個人を指すわけではないが、ある種の人に対する批判とか。そのある種のひとというのは割り勘をする人とか、刺身の盛り合わせを注文する人だとか、言ってみれば、その話者の好き嫌いを披歴しているだけという。テレビはそういうものだというひとみいるかもしれない。共感を生み出すことがテレビの役割だと。だが、そのような悪口に共感することがそんなにおもしろいものだろうか?白熱教室のようにその種の人を呼んで、討論させるなら、まだ見れるかもしれないが、私の見たものは欠席裁判じみた、そこに存在しない人に対する罵倒にしか見えなかった。(大学の授業なんかでも、一つの本を多くの人で読んできて、それについてただ語り合うみたいな形式は確かにおもしろかったようにおもう。)

 では、討論形式であれば、面白いのだろうか?白熱教室はたしかに面白い。サンデル先生の質問の仕方がいいからだろうか?それはたしかにあるかもしれない。でも、本当に面白い部分はことばのやりとりなかにある。ごくまれに見られることかもしれないが、対立する意見を持った者同士の間でまず共感が生まれ、それがそれをみるものへの共感へとつながるという具合に。なので朝までやっている討論番組なんかは自己主張の連続でやり取りにはなっていないので、討論の面白みとは違う部分がたのしいのだろう。大変失礼な言い方になるかもしれないが、チェーホフの会話劇にみられるかみ合わなさを楽しむというべきか・・・・いずれにせよ、わたしにとって多くの討論形式の番組はそれほど面白くない。

 他にも不満な点は議論の余地のないくらい悪い奴はみんなで叩こうみたいなもの。これは自分の場合、麻原の時から感じていた。許せないという気持ちは理解できないわけでもない。しかし、それをテレビの中話すということ。そのことがわたしには理解できない。この種の発言は犯罪者に対するものとは限らない。男性タレントと不倫していた相手にも向けられる。検察庁法改正に対しては慎重な姿勢を示していたのに不倫には意見を述べる若者タレントなんかの話を聞くと、処世術はうまそうだけど、おもしろくないひとだなと思える。「テレビ的」にはおもしろいのだろうか?あるいは、自分が楽しめていないだけで、多くの人はそれを見て楽しんでいるのだろうか?

 これ以上書く気はしないが、テレビの中からテレビを見ている「大衆」に対する批判なんかも頭にくる。彼らの考えているような「大衆」なんて、実はこの世のどこにも存在していない。それでは、彼らは自画像に唾をかけているということになるのだろうか。

  いずれにせよ、個々の発言や発言者に対する批判というものにわたしの関心があるわけではない。そういうものをテレビでみることに対する不満があるだけだ。