忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

心の救済

 『ブギーポップは笑わない』(アニメ)「社会の敵」というのは誤記で「世界の敵」だったのか。いずれにせよ、階段で死んだ青年も心のスイッチを押しちゃう作家もいわゆる悪人には見えないけれど、世界から敵と認識されてしまう存在というのが面白い。なにに人が不安を感じるのか、それがわかりやすい悪とは限らない。あるいはわかりやすい悪というもの自体、実はそれほど自明なものもないのかもしれない。

 先日、NHKで「新実在論」の提唱者の哲学者が話しているのを見た。よくわからん経済学の話をしている番組にも出ていた気がするが、彼の話してる内容は理解できないものの、極端な相対主義を否定してるのが面白かった。自分なんかそれに該当する気もするので、それほど心地よく話を聞いていたわけではないが、「人間性」なら「人間性」でもそこに確固たる確信があるという気概は感じさせてくれていた。ドイツについて何も知らない自分だから感じただけかもしれないが、ドイツの人はヒトラーという人間を生み出してしまったことに反省というか、後悔の念というか、そういうものが強烈にあると感じた。ただ気になることがある。哲学者の彼はそんな話はしてないが、ヒトラーを政治の天才ということにして、だまされた国民という構図をつくることにはなっていないのか。メディアも国民も共犯者ということを昭和の日本について語る人がいたように思うが、どちらの話も私にはピンとこない。誰が悪い、彼が悪いという話ではないと思うのが・・・

 私は政治家についてそれほど悪口を言っているつもりはないのだけれど、彼らのことを嫌いだと思われると少し心外だなと思う。ブレアの演説なんかは結構好きで、イラク開戦に賛成する彼の確固たる確信みたいなものにはえらく心を動かされた。ただ、何度も言うようだが、テロリスト同様政治家の語る正義というものを自分は持つことができないだけだ。

 また私が政治というものを軽視してると思われるのも心外である。ただ、私は政治にできることとできないことがあると思えるだけだ。「心の救済」とか政治には到底できないだろうと。そもそもそれを可能とするものがあるのかさえわからない。政治は魔法ではないのだから、さもそういうことができるというように語られると違和感をおぼえるというだけだ。

 誰が言っていたのかはもう記憶は曖昧だけれど、たしか御厨というひとだったとおもうが、政治は技術的な進歩をするのがいいという話。その通りだなと思う。彼の言いたいこととは違うかもしれないが、どんな人間が政治家になっても、ある一定の水準が維持されるような仕組みがあれば政治はもうそれで十分なのではないかと思える。「心の救済」というものは政治に期待しても仕方ないのないことで、それにこたえられるというような話も政治家にはしてほしくない。というのが私の勝手な願望だったりする。