忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

現実に還る

 こういう意図を製作者側が持っているか、否かは置いておくとして、そう受け取る人は意外と多いのだろうか。居心地のいい空想の世界に別れを告げ、現実に還って、退屈な日常に生きがいを見出しながら、懸命に生きることこそがひとの道と思う人が多いということだろうか。

 埴谷雄高三島由紀夫の話を思い出した。三島が役者の演技はつくりもので、たとえば、腹を切る演技は演技でしかない、実際、腹を切ってみせたら、演技はふっとんでしまうといったのに対し、埴谷は異論を唱えた。文学(つくりもの)の価値はそんなことでは吹っ飛ばない、文学の価値は未来を暗示できれば、それで十分なんだというようなことだったと思う。

 どちらの主張が正しいとか、間違っているとか、そういうことにはやはり自分には関心がないわけだが。気になるのは、意外とここでいう三島的発想は根強いのだなと思う。そうでなければ現実に還ろうエンディングというものは成立しないだろう。

 巷間で言われるほど三島というひとに文学の才能がなかったといって片づけるわけもいかない。実際、のちに腹を切った彼という人間を安易にわかった気になるのも失礼な話だ。

 ただ、私にとってけっこうこの問題はあとを引いていて、未だにぼんやりと考えることはある。還った現実にもまた観念的なものはあふれていて、居心地がいいわけではないけれど、その観念的なものをどうにか始末してやりたいとは思う。

 あるいは、この手の行動はそもそも他者にうながされてやるのではもったいないのではないか。つくりものの世界に浸るとこと自体に毒にも薬にもなる部分があり、その毒の部分を自分なりに了解して、解毒する。こういう過程でありたいものだという願望。

 どのアニメからこういうエンディングがでてきたのかは知らないけれど、なんとも余計なお世話という気がしないでもない。

 私が『電脳コイル』を好きな理由はおそらくこの辺にある。