忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

セカイ系ってなんだろう

 「セカイ系」という言葉自体、目にしたことはあるもののあまり気にもしていなかった。ちょっと調べてみるとこれといったきまった定義があるわけでもないらしい。「私小説」もひとによってはかなり独特な定義もあるもんだなと思ったのでそんなものか。

 かりに「セカイ系」を主人公とその周辺の出来事等が世界の命運を握る話とするとそれはおもしろいのだろうか。よくわからない。『ヱヴァンゲリヲン』なんかその系統にあたるらしいのだけど、そこまで記憶にない作品で何度も見ようとは思わなかった。つまらなかったというわけではないのだけれど、なんでだろう。父親に認められたいとかよくわからないなと見てた記憶だけはある。

 『シュタインズゲート』なんかは面白いと自分は思ったので、作品によるということなのだろうか。そもそも主人公が世界の命運を握るという設定そのものに面白いとも、面白くないとも自分は感じない。なにか問題が起きたとき、ひとの心の動きを追うとか、どうやって状況を打開していくのかとかそういう部分を面白いとおもって自分は見ている。その問題が世界規模であっても、個人的な出来事であっても、私の受け取り方に大きな違いはない。

 主人公が世界の命運を握る設定そのものを稚拙と感じるなら、そういう作品はその人には合わないだけだろう。個人→家族→社会→国家→世界という段階を踏まえないので、リアリティがないというような批判もどこか的外れに思う。その→矢印自体それほど自明なことなのだろうか。人間が国家を作るには至ったのはそれほど自明なことでもなく、かなり無理をしてそういうものをこさえたという印象が私には拭えない。なにかそういう契機を無視しているようでこういう批判を見るとつらい気持ちになる。

 『ssss.gridman』は裕太があの世界を救うという点にだけ着目すれば、それもまたセカイ系なのだろうが、やはりそれ自体に面白みを私は感じない。きっと別の部分を面白くて見てるのだろう。思春期特有と思われる悩みのあれやこれやみたいな。しかし、それって本当に思春期に特有なあれやこれやなのだろうか。

 世相について言いたいこともないし、書くつもりもないけれど、2001年にテロが起きてから戦争に至り、それを日本から見ていた当時の自分の気持ちの嫌な部分は今でも残っている。また、1995年のあの事件にひと区切りがついたみたいな話をされると「区切りってなんだよ、今でも自分はあのころのままだよ」って思えなくもない。