忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

とりあえず先日のお話に関連して

 誰かの期待に応えるとか、応えないとか、そういう問題に関連して

 『安達としまむら』という作品に出てくる宇宙人、知我麻社(以後、変換がめんどいので、「やしろ」表記)は誰の期待にも応えようとしていないところがおもしろかった。宇宙人だからかもしれないが、地球人の「お約束事」としてそういうものがあるということすら知らなさそうな感じであった。で、たぶん、この作品を見た人はこの奇異な存在を見て、涙が頬をつたうわけだ。おそらく、不意に過去の幼かったころを思い出し、自分にもそんなころがあった、と。世界に他者の「期待」というものがあることなどしらず、三輪車を自分の思い通りの方向に乗り回していたころがあったはずなのだ。

 という回顧自体がぼくにはどうも嘘くさい。なんか、歳を重ねてそう思うようになった。島村は本作における回顧の人という位置づけができそうだが、島村の回顧はなんらかのズレのようなのようなものが伴っている。

 こういう回顧の問題と本作における神の臨在のようなもの、それをつなぐのはモノローグということになるだろうか。強引にまとめた風になってしまったが、気にしない。

 出かけるので、メモは終わり。

 

 今日は寒いのか。

 

 もうひとつメモ

 最近、話題のAI

 羽生さんの記事、いつのだったか。将棋は今、AIに対する理解を競うようになっているのか?写真と画家の関係。

 AIは結果的に、人間にどういう変化をもたらすのか?よくわからん。人間らしくないAIと書くと、これはなにをいみするのだろう。なんか今のAIは、チャットロボット?は人間っぽい。人間がつくるから、どうしてもそれっぽいものになるのか。

 宇宙人陰謀論としては宇宙人に地球に来てもらって、つくってもらえばいいじゃないの?と。地球を侵略されつつ。やっぱ、陰謀論の作成はぼくには向いていないようだ。

 

 冒頭に関連する話に戻ると歳を重ねてみないとわからないことはあるので、上野千鶴子さんがボーヴォワールについて語ることばはあまり嘘くさく感じなかったけど、ホモソくささは前からおありなのでは?と。何を書こうと思ったのか。

 ともかく、年齢を重ねるとわかった気になるというのも、ぼく自身がそれをすると嘘くさくなる、といのはどーしたもんかな、と。