忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

早起きして、テレビ番組を見た

 テレビのニュースショーを久々に見た。その感想。『そこまで言って委員会NP』に宮沢さんがでているようなので見たが、マスクの話のところで視聴続行が困難となった。

 もうはっきり言ってしまうと、この番組に出ている人がマスクをしようと、しまいと、かなりどーでもいい。問題はエッセンシャルワーカーが濃厚接触者判定から逃れ、業務に支障きたさないようにするための基準、それがマスク着用の有無だった。で、「方便」として設けた基準ではないのか?「かのように」戦略。

 「同調圧力がー」と言っているようなのはバカなんじゃないの?すごくどーでもいいのだが。

 サンデル先生はコロナ禍で白々しいことしか言っていなかったが、エッセンシャルワーカーの人たちに対する感謝の念は表明していた。実際、それくらいしかできないからだろう。ロールプレイとして彼はああいった議論を提起していただけと思う。さらに余計いお話を付け加えると、彼がロールプレイをするのはこの問題の背景に「格差」問題があるからだろう。当該番組に出ている方々、個々の分野では、ぼくは詳しいことは知らないが、皆様、業績がおありなのでしょうが、ことマスク問題、というか、コロナ「禍」議論、言い換えるなら、社会問題としてコロナ禍においては、まったく参考になるお話が聞けない。

 学校の先生だって好きでこどもたちにマスクをさせていたわけではないだろう。当初、休校になったとき、社会からの反発があった。その反発は理解できる。休校回避のための窮余の一策。

 

 政策としてのマスク

 今回、隔離と治療が対策の要であった以上、いかに隔離を回避するか、その方便としてマスクの着用があった点に触れない議論はクソだと思う。当初、隔離と治療を基本としたのは誤りだったとは今でも思えない。無論、マスク政策の見直しはあってよいが、過去のそれを否定する「だけ」なら、そういう議論をぼくは無視する。

 

 ゴミ番組だ。ぼくのあまり好きではない右翼番組だからそう言うのではない。左翼番組でもその点に触れなければクソだと思う。というか、左翼も苦手なのだが。

 

 出演者に議論の設定の権限はないのだろうから、文句を言うつもりはないが、誰一人としてサンデル先生のような議論を試みようというものがいないのは驚きだ。なんだろうな。やっぱ日本の議論の質は低いと思う。こういうことをいうと「出羽守」と言われるらしいですね。でも、実際、民放の番組、とくにニュースショーは質が低いと思う。この番組に出ている人がかりにマスクをせず、隔離されても対して社会にたいした影響は出ない。お気楽な話をしているだけに見える。

 マスクのところでその先を見る気を失せさせるというのは、ぼくはもう続きを見る気がしないので、文句を言ってはいけないのか。

 

 マスクが必要ない環境、たとえ「方便」としても、マスクが必要である環境、このふたつがあるということではないのか。そう考え、ぼくはマスク政策を政策として支持した。

 逆から逆に振れるクソ社会に祝福を!(皮肉ではないです)状況の精査とか必要ないおおらかな社会ということでしょう。(こっちは嫌味)

 

 ぼくはもう屋外で黙って歩ているときはマスクしてない。屋内はだれかがいるとおしゃべりするのでマスクしている。いずれにせよ、こういう番組を見て、反マスクに感化されたような人に話しかけられるのは不快でしかありません。嫌われて結構という感じです。

 

 つーか、慢性的中二病なので、社会に関心あるフリもめんどくなってきた。今日はまだ時間があるので、『独矛超盾』の終章を読みなおそうと思う。「超越論的主観性」の議論。たぶん、ぼくはここに関心があって、永井さんの本を最近になって、読み始めたのだ。しかし、カントを読んだことがない。埴谷雄高の良い読者ではなかったので、カントはスルーしていた。まあ、全然、関係ないお話になるが、ニーチェもスルーしているわけだが、ニーチェは多くの日本の文学者へ影響を及ぼしただろうから、その人たちの本を読んで間接的に影響を受けているとは思う。