忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

早寝、早起き

  今週は日付が変わる前に就寝して、読書している。しかし、眠たくなって、目をこすりながら、いつの間にか寝落ちするのが読書という気もしなくはない。動画なんかでも、そうだけど、最近、熱心に見たのだと、コロナ人工説に関する解説動画であったが、どんなに内容的におもしろくても、自然発生的眠気には勝てず、寝落ちするというのがとてつもなく気持ちがいいので、ということになるそうだが、ただ、睡眠を楽しむために見たり、読んだりしているわけでもないか。しかし、あの、もう目を開けていられないという感覚は生活の中で他に感じることできない気持ちよさがあると思う。

 

 問いが精緻化する際、同時に別の論点が出てくるようだ。そこでおもしろいのは議論が拡散するのではなく、論理関係を維持しながら、その議論はコントロールされていることになるだろうか。ぼくにはそう読める。まあ、ぼくの今、文章のように思いついたことを比喩的に、横書きにならって左から右に書き流しているわけではないからだろう。

 やっぱ、本というのがおもしろいのは、ある一つの著作全体を貫く論旨というものが、小説なら主題というものか、そういうものがあって、個々の記述、小説なら描写というものとそれらとの関係を読者として読み、格闘できる点にあるのだろう。

 脱線したか。短編集でも、そう読んできたか。思えば、意識したことない。

 

 今日、メモしておこうと思ったのは、ぼくはまず哲学用語の理解がないから、読めないのだとわかった。「可能世界」、「可能性」、「思考実験」等々、挙げていたらきりがないが、ともかく、字面からイメージしたものと違うのだと思った。まあ、仕方ない。ぼくは哲学を熱心で読んでこなかったのだし。ということでえ、基本的な用語の理解も平行してやらないと読めないとわかった。

 

 色の識別は彼我問題ではなく、他我問題に近いのか。このへんも、ぼくのことばの選定が甘いのだと思う。識別と概念化の関係とは?よくわからんな。

 

 あと、やっぱ物語というものは疑似回顧的にならざるをえないと思う。しかし、これはやっぱ読者視点か。おしまいまで読むことでそうなっているのかも?おしまいまでよむことでそういう視点になっているだけというお話か。まあ、ちょっと場合分けが必要か。疑似回顧の視点は著者か、登場人物か、といったような。

 

 脱線した。

 

 ぼくが熱心に哲学を読まなかったのは、単に小説が好きだったというのが大きいけど、小林秀雄を熱心に読めば、ベルクソンを読まなくてもいいのでは、と。まあ、『感想』を読むついでに読んだけど。しかし、これは誤りであったな。当たり前のことだったけど、だれが書いたのか、その人に固有な問題について述べているという肝心な点、小説なら、これは当たり前のようにそうしているのに。三島を読めば、三島を読んでいる気になるし、入間さんを読めば、入間さんを読んでいる気なる。

 自分に関心のある事に近いのだったら、熱心に読まなくていいとはなるわけなかったのだ。

 しかし、ぼくはボケーとしているのが好きなので、読書に時間をさけるわけではなさそうだ。アニメも見たいし。あと、ボケーと考えごとをするのも好きなんだよな。考えるというよりも、連想ゲームみたいなものに近いが。

 

 若い人への憧れ?というか嫉妬?

 頭が固くなってきたのか。発想の柔軟さとか、素直さは失われつつある。あ、素直さは元からないかも。まあ、いいや。ともかく、若い時、いろいろな作品に出会うのはいいと思う。今期のアニメなんか、ちょいちょいついていけない感じ。若い人の感想おもしろい。