忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ この間、書きかけてほったらかしていたの

 ある作品について、受け手が主題を見出し、それと整合するように解釈する、ととりあえず考えているが、これは作品論というなるのか?ぼくとしては、そう思っている。ただ、その作品論は作家論としても、成立していないとダメなんじゃないか、というのはある。

 直接、作者はなんたらと言及するケースは稀というか、ほぼ言及していないが、一応、ぼくの中では作者についても書いているつもりではある。まあ、なんだろう。そう、直接、書いてしまっていいものか、どうかみたいなこともあるし…みたいな。

 

 例えば、細田守監督。正体がばれる/ばらす。ここに重要な意味をもたせている作品群がある。たぶん、細田作品をすべては見ていない。というか、最新作を見ていない!が、それでも、監督にこの正体をばれる/ばらす問題はなにかよぽっど繰り返し描かれなければならぬ主題であるのだろう、と思える。

 とくに、『時をかける少女』と『おおかみこどもの雨と雪』は正体をばらすことは禁忌として描かれていたし、見ているこっちも、なぜ禁忌と結びつけて描くのかは気になる。雨と雪の父の死は正体をばらしたことによると思っている。タイムラグについてはよくわからんけど。

 まあ、くわしく書けるほど考えたこともないので、今日はこのへんでおしまい。

 

 押井守監督だと、たぶん、電柱という異物の突き刺さった東京という街が主題なのかな。おそらく、それ以前の東京という街の記憶が監督の中では今でも鮮明に残っていそうな感じが伝わってくる。

 

 まあ、余計なことを書いてしまったが、ともかく、作品論は作家論としても読めるみたいな考えがぼくにはある。自分がそのように書けているとはあまり思わんけど…

 それはなぜか?

 テクスト論というのがぼくにはよくわからんからか。こういう主張が出てこざるをえなかった経緯はわからないでもない。でも、なんかよくわからん。実感と違いすぎるからか。三島の小説を読んだら、三島を読んでいる気になるし、安岡の小説を読んだら、それはやはり安岡を読んでいる気なる。これは、なんかもう避けがたいことなんじゃないか、と。むりやり作品から作者を引きはがすことの意義を説明されれば、そうなのかとは思うものの、実感には反する。

 実感から離れて、小説を読むとはいかなる行為ウなのか?

 これがぼくにはわからんのかもだな。

 

 まあ、これは日常で点検できるので、これからも、ぼちぼち考えてみよう。

 

 『エンゲージキス』は設定を見て、なるほどとは思った。代償というのが今後、どう物語の流れに影をおとすのか。