忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

モブっことしての嗜み?楽しみ?など、いくつかメモ

 このところ、忙しいというわけでもなく、時間が取れず、アニメ視聴もままならない。突然、掃除を始めたりするなど、無駄なことに気をとられということにしておこう。

 

 先日、若気の至りと言えるほど、もう若くもないし、調べてみたらみたら大雑把に見れば同世代の発言と知り、なんだか自分のクソガキ性の残滓にいささか苦笑を禁じえなかったが、ともかく反省はしない。

 

 モブっこの嗜みとして、ぼくはもう十数年前に社会への関心をひとまず失っている。ごたぶんにもれず、凡庸なもぶっことしてのあり様に倣ったと言える。なので、それ以来、主役級の人の発言については肯定も、否定もせず、ただただ、スルーしておけばいいと思っていた。

 転機というほど大げさなものではないが、いつごろからか、また、興味はないものの、ちらちらと横目で確認する程度にはなった。主役な人の発言ではなく、社会のほうを見ているのではあるが…そのついでに主役な人の発言も、申し訳程度には確認している。で、よせばいいのに、たまに過剰に反応してしまう。

 こどものころから、いい加減な人間性だとでも言っておけば、すべてが許されるとは思わないが、実際、ぼくはいいかげんなところ「も」もちあわせているので、諦めている。モブっことしての矜持ではない。

 

 麻生さんがまた世間の生真面目な人の感情を逆なでするようなことを言ったのであろうか?内容を見るとそこまで、的外れではないのでは?と思いつつ、反論したくなる人たちの理路もわかる。では、なぜ未婚化?晩婚化?進んだのか?その原因を問いたいのであろう。政策ミスが経済停滞を招いたという理路は理解可能だ。

 などと、両者に理解を示すこころづもりは微塵もない。

 ところで、最近、筒井康隆さんと蓮實重彦さんの対談本を読んだ。蓮と彦の旧字体の入力のし方がわからない。手書きの候補に出てこない。

 その本で、「女中」についてお話があった。少子化でなかったころの日本とはどのようなところであったのか?男には丁稚奉公というものもあったはずだ。などと書いているといらぬ誤解を招くだけのような気もするので、あまり、こういう文脈で触れる内容ではなかったのかもしれないが、しかし、麻生さんはおふたりのすぐ下の世代であるゆえにそういう日本を知らぬはずもなかろうと嫌味のひとつも言ってやりたくなるが、ぼくはその麻生さんよりもはるかに若輩なので、何も言わずにスルーしておこうとなどと言い訳できないくらいにはごちゃごちゃ書いてしまった気がする。あれ?この嫌味はだれにいうのが適切なのか?麻生さんではないとしたら、だれに言えばいいのだろう。

 ところで、女中についてぼくはなにも知らぬに等しいが、新海映画で見れるちょっと年上の女性に感じる淡いなんたらといったようなものは今でも感性としては残っているような気がする。ぼくはバイトに行くのがそれもあり、楽しかったのだ。モブっことしての楽しみと形容していいようなものであった。

 

 しかし、ぼくはこの対談本については読んでみたもののほぼ内容はわからなかった。おもえば、ぼくはおふたりの本をあまり読んでいないせいもあるだろう。小説のほうが好きなので、筒井さんのほうを読んでいるかも。

 『帝国の陰謀』は私生児であるところに興味を持ってしまった。『批評あるいは仮死の祭典』は学生時に買ったのに、3年前に位にやっと読み終わった。タイトルのかっちょよさに魅かれ買ったまではいいのだが、フーコーに興味をもったのが、ここ数年のことであったからであり、ぼくが吉本ファンであったから、意図的に避けてきたわけではないとまで言えるか、どうか。今なお残る疑問として、フーコーと吉本の対談の噛み合っていなさ。

 映画『リズと青い鳥』の希美とみぞれの会話の噛み合っていなさはおどろくほどなめらかで違和感がないのに、彼らの対談のかもす不協和音はなんというか、後味が悪かった。というと、『リズと青い鳥』も決して後味の良い作品であったとも言えないか。ぼくが単に好きなだけだな。

 しかし、もう、ぼくは「モブっこ」と呼べるような歳ではないな。かといって「モブおじさん」は語感も、リズムも悪い。「モブさん」だと「アブサン」もしくは、『あぶさん』のパクりみたいだし?

 脱線したようだ。何の話をしていたかは忘れたので、あとはアニメのメモを。

 

 『お兄ちゃんはおしまい!』2話まで見た。性別転換あるある描写がこの作品の主眼ではないと今でも思っているが、元兄の男時代の顔は2話で出てきた。それでも、やっぱ、見た目の変化が人格にどう影響するかみたいなお話と2話でも思った。2話では兄の変化よりも、妹の姉(兄)に対する接し方の変化としてそれが描かれていたように思う。兄だけではなく、兄の見た目の変化は妹にも影響しているのだ。

 人間の見た目の問題はガチでやると結構、えぐい話題になると思う。それこそ、吉本は人間の原始性の名残とか言っていたか。クジャクとかライオンのたてがみ。簡単に吹っ飛ぶような問題ではないということかと思う。

 

 『ノケモノたちの夜』2話まで見た。兄と2話時点で会うことに驚き。テンポが早いのか、どうか。ウィステリアが契約の代償で失った光を取り戻し、マルバスの最期をその目で見届けるみたいな結末を勝手に予想していたが、どうも違うようだ。なんか、ネット空間をうろついていると予期せぬネタバレに遭遇するのはもう仕方ないと思う。便利になった代償だ、なんつって?(などといってみる?)

 

 『ニーアオートマタ』2話まで見た。これもさーネタバレにぶつかった。お話の構造に関するものであったので、驚きましたけど。しかし、それを知ったとしてどうということはない。問題はそういうお話の構造はなにを語りうるのか?でしょう。そこを具体的描写から探り当てる。

 作品が主調として暗いのはネタバレからも納得した。

 そういえば、『ブギーポップは笑わない』も暗かったし、『serial experiments lain』も暗いくて、同時代なのかと思いきや、そうでもなかった?ちょっと今度、調べてみよう。『灰羽連盟』は暗いといっても、なんか微妙に違うような『灰羽』は湿っぽい温かさ?、それに対し、『ニーア』などは乾いた冷たさみたいな。

 全然、関係ないけどひろゆきさんのような合理主義者は『ニーア』みたいな作品は嫌いなのだろうか。この作品はネタバレから推測すると、なんもかも、すべてが無駄。意味のない争いに意味のない結果がついてまわる。ひろゆきさんについては正直、よくわからんけど、ぼくが合理主義者一般に感じる不満の多くは無駄なことには意味がないとかいっちゃうところだ。考えてみたこともないが、そんなこというやつがつまらんと感じる。バカじゃねーのとまでは思わない。おそらく、バカなのは、ぼくのほうだ。あと、みんなが合理主義者になったら、世界はどーなっちゃうんだろう?つまらないという次元ではなく、どんづまってしまうよーな?合理主義者によるぼくに対する啓蒙は迷惑という言い訳ですね。

 当然、ぼくはすべてに意味があると言いたいわけでもないし、むしろ、そういう言明には忌避感がある。意味がある/ないという軸を壊したいだけか。

 文学は特に、ことばのことば遊び的側面を否定できないと思う。言葉遊びだっていいじゃないか、といえなようでは文学ではなくなる?ぼくの屁理屈好きはこういうところに根があるのかもだな。

 『ニーア』解釈 仮説1終わらない青春なの?『ビューティフルドリーマー』的主題。押井的『うる星やつら』解釈の変奏。

 

 「XはYに生まれる」についてなにか、メモしようと思ったのだったが。

 なんだっけな?

 存在倫理というのは原生的疎外から出てきた発想というメモだったか。一昨日あたり、帰路で考えたのだが、わすれたな。最近は帰ってきて、ごはんを食べるとすぐ眠くなったから、仕方ない。

 ああ、もうそいう指摘はどこかにあるだろうと思ってメモはいらないと思ったのだった。

 

 「独在性」については時間をとって読みたい。『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか』というタイトルはかっこいいと思った。

 

 タイトルというものの好みというのはあるかもだな。『やがて君になる』はタイトルもいい。『安達としまむら』も「しまむら」とひらがなである点がかっこいいのだと思う。

 

 だらだらと書いていたら、2時を過ぎてしまったようだ。これはまずい。寝る。