忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

秋アニメ メモ

 このところ、朝が早い。寒くて目が覚める。暖房をつけ、目覚ましにコーヒーを口に含み、BGMがわりにアニメを流し、部屋の掃除を今朝はした。外はもう明るい。

 

 あまり、日記に書くことはなかったが、『うる星やつら』は見ている。「君去りし後」はなにかと話題になっていたのだろうか。諸星あたるは「ツンデレ」なのか。なぜ、一般に「ツンデレ」は女性のみを指すことばになったのだろうか。昭和の男は痩せ我慢ということばで形容されたのだろうか。松竹映画に『男は愛嬌』、『女は度胸』というのがあったが気がするが、内容はもう覚えていない。これはわざと反転させたのか。

 

 『4人はそれぞれウソをつく』もおもしろい。ひとり男が混じっているのが、おもしろいのかもしれない。というのはやっぱ関根の能力が効かないからだと思う。変則的な組み合わせで絶対にばれないウソをつくりだしている。なので、翼がこのままでいいのか?という悩みは気になる。

 

 『ぼっち・ざ・ろっく!』結束バンドが部活動ではないから、文化祭にいろんな人が来ていた。学校ー部活動ー閉じた空間みたいなお話をしようとは思わないが、この作品は部活動ではない点が奏功している気がする。

 

 『DIY』もおもしろかった。感想はまた今度にしよう。

 

 山本寛さんの『すずめの戸締り』に関連して

 山本さんによる評は作者、つまり、作り手が作り手に対する評である。別の観点の評もある。そして、ぼくはそのことがけっこう前といっても、10年くらいか、気になっていた。

 柳田國男による田山花袋批判だ。柳田を受け手、田山を作り手と規定していいのかは、議論が分かれそうだが、雑にお話を進めると、受け手としては柳田のような疑問に違和がない。文学とはなんぞや?表現とはなんぞや?

 ものすごくいじわるな問いであったと思う。田山も答えに窮しただろう。

 ものを書き始めるよりも前に恣意的な線引きがすでになされているのでは?という疑問。たとえば、あまりにも悲惨な話は作品にできないといった次第に。

 

 止せばいいのに、作品鑑賞前に『すずめの戸締り』評をいくつか読んでしまった。

 

 最近はそうでもなくなったが、いち時期、社会批評性に重きを置いた作品を全く見る気がしなくなったのは、上記の柳田による文学批判が頭をかすめたからだ。今でも、そういう作品を進んで見ようとは思わないが、半ば、開き直ってはいる。ただ、感想を述べるにあたって、その部分は避けがちではある。

 特にオチはない。

 オチはないが、作者が表現しづらいことに挑んでいると感動はある。必ずしも、それが社会批判とは限らない。というか、むしろ、社会批評性とか関係なく、感動するのかもだ。

 しかし、これも柳田のことばに触れたから、そうなっただけなのかもだ。

 

 さて、出かける。