勝負事について
『魔法科高校の劣等生』はそれほどちゃんと見ているわけではない。
運動会みたいなのやっているところは見た。
この運動会編を見て楽しむのと五輪を見て楽しむのになにが違いはあるのだろうか?
いくつか音楽祭が話題になっているが、これらにしたってぼくの基本的な見方は変わらない。民間の開催者が判断し、開催したり、しなかったりすればいいだけの話ではないのか。
また脱線からは話が始まった。
そういう話はとりあえず忘れて、ちょっと気になったことについてメモを残しておく。
勝負事において勝ちすぎないこと。ゲームとかで。微妙な問題だと思う。まず、それを見透かされると気まずいだろ。ぼくは伯父に将棋を指してもらっていた。まあ、何度も負けても、こっちは気にしていなかったのに、伯父はわざと負けることが度々、あった。ぼくは負けて傷つくような繊細な人間でもなかったから、どーでもいいとは思うが。まあ、なんだろう。そんな気遣いをされるほうが苦手かもだ。
まあ、よくわからんな。小学生の運動会のとき、休んだ生徒の分を代走した。というか、正確にはさせられたが、先生は気づいていたのだろう。
でも、あれからもそこらへんはあんまし変わっていないな。勝ち負けが本当に気にならない。
勝ちすぎない美学みたいなはぼくは好きじゃないが、かといって、勝ち負けにそもそも関心がないため、そう思っているだけかもしれず、とはいえ、ゲームは意外と好きで、LOLとか少し前まではやっていたし、『魔法科高校の劣等生』というアニメはどこら辺を楽しめばいいのか、よくわからず、とびとびで見ている。
話は変わる。
「批評」ついて
少し前に話題になっていた。詳細は知らない。
書評、時評というものの性格上、本の紹介みたいなところはあるのだと思うが、当該時評も作品も、どっちも読んでいないので、何も言うことはない。
ただ、批評というものが最近、「批判」と同義で使われていたり、なんだかなあと思うことはぼくにもある。基本的には、どう読んだかを語るのが批評ではないのか。その結果として、批判に向かうことはあっても、それが目的ではないだろう。
批評を読む楽しさってのはなんなのだろう。漱石大先生に怒られるかもしれんけど、漱石先生の作品よりおもしろい漱石作品の批評をぼくは読んだことがある。ただし、作品がなかったら、その批評はうまれなかったかもしれない。にわとりとたまごの関係はここではどちらどちらであるか、明確にあるにしても、その関係がおもしろさという曖昧な基準の領域に持ち込まれ、作品の優位性を示すのかといえば、必ずしも、そうとも言い切れず、相互補完的ということばでごまかしたくなるが、まあよくわからん。
これはあくまでもぼくの好みの問題ではあるけど、批評を書いたひとを知ることにある。その点で現代はおもしろい。大先生の批評を本で読むだけの時代ではないわけで、ちょっとネットで検索をかければ、実にたくさんの人の感想に出会える。で、それは大先生のよりもおもしろくないのか?といえば、そんなことはなく、おもしろい感想を書く人がたくさんいるのだ。アニメを見る楽しさのひとつに誰かの感想をのぞくってのがぼくの場合、重要な位置を占めている。
ノンフィクションとフィクションで読み方が変わる?
考えたこともないな。変わるのだろうか?
ノンフィクションなんて随分と読んでいない気がする。
批評の世界が豊かになったというのは人間がそういうことを頑張っちゃう病気みたいなものなんだろう。というか作品もそうなんだろうと思うけれど。
なにかについてうまいこと過不足なくことばで語りたいみたいな欲求はたぶん病気だと思う。で、問題はその先で、うまく語れた気がするというのはいい文章が書けたみたいな話とは全然、違うみたいな。なんだろう。ぼくはいい手紙を書いてみたいね。だれに書こうか。これは病気だろう。
大事なことを書き忘れた。批評は書く前に「読む」から始まっている。これは大事なことかも。「読む」とは実際、なにをしているのか。ぼくはあまり考えたことはないような、あるような。
そりゃそうと夏も終わる。
といってもあとひと月ちょいは暑い日が続く。
残り少ない夏の蒸し暑さを満喫するために夜な夜な散歩していた。数日前までは本当に蒸し暑かった。だからアイスキャンディーがおいしい。早く来年の夏が来るといいね。