忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

秋アニメ メモ 整理、異論など

 『恋愛フロップス』

 アイ?アオイ?によってハックされた現実世界。

 アイは恋してみたかった。で、朝に恋をした?朝のフラッシュバックはなんなのだろ?そもそも、アイが朝に恋をしていなかったようには見えなかったが…

 結末は二者択一なのか?軽率にも、先を予想するなら、もうアイを選ぶつもりが朝にはなさそうに見えたけど。

 二者択一ではないのか。

 それはそれとして、仮想世界の5人に朝はアイの面影を見るのか?仮想現実を取り戻したとして、5人からアイを切り離し、別人格として付き合っていくのか?そこらへんがどう描かれるのかは確認したい。

 

 この作品とは関係なく、放言すると、別に過去の思い出に閉じこもって生きてもいいような気がするけど。これは誰にも言わなければ、気づかれないし、そういうことをいちいち確認してくる人もあまりいないと思うので。死者との思い出とか、忘れようとしたって無理だし、みたいな。

 「前向きに生きる」、つまり、 未来に向かってみたいな理念はなんなのだろう。

 

 『水星の魔女』

 ちょっと自分以外の感想を漁ってみた。

 整理をかねていくつか異論を残しておきたい。

 

 テンペスト元ネタ説

 『テンペスト』が元ネタであるというのは異論はない。その側面はあるだろう。しかし、話運びまでなぞる予想には違和感がある。かりに、なぞったとして、ぼくは何の作品を見せられたのか?という受け手としての疑問がでてくる。主題もなぞるということ?解せない。『テンペスト』をじかに読めばいいのではないか?と。

 まあ、ぼくがあまりその人たちの考察を理解できていないということかもだが。

 たとえば、比較の問題なのか?シェークスピア作品における『テンペスト』の位置づけとガンダムシリーズにおける『水星の魔女』の位置づけの対比を通して、なにかを語ろうとしている?これなら、わかるかも。読んでみたい。

 しかし、自分ではやろうとは思えない。めんどくさい。今からシェークスピアの作品を片っ端から読むのがめんどいし、ガンダムシリーズでどれくらいあるのよ?という時間の問題。

 

 学園ものから起業ものへのシフトについて

 まず、シフトしたと見るか、どうか。

 シフトしたと見る人は起業ネタが続いていることを重視しているようだ。ぼくはそこまで重視しない。起業のお話のこの作品における位置づけは、スレッタとミオリネの関係性に変化を生むための挿話と理解している。そして、これはまた、別のことも意味する。ミオリネにはその自覚はなさそうだが、嫌っていた自身の父、デリングに徐々に近似してきている。過去、ミオリネがデリングに感じたことを、今、スレッタがミオリネに感じているのではなかろうか。

 で、これはけっこうえぐいネタだ。古風なネタともいえる。子から見て親の嫌なところが子にも現れる。どんどん自分は嫌な人間になっているのでは?という自意識。そういうシーンがあるかはわからんけど、ミオリネがこれに気づいたときの顔が楽しみ、とは、悪趣味すぎて、言えないか。気にはなっている。

 あれ?ぼくも起業ネタを重視する点では同じだったかも。

 

 先日の補足。

 関係が壊れると書いたが、これは、もちろん、スレッタとミオリネの関係を指してはいるが、それだけではない。正確を期すなら、学園コミュニティが壊れるとすればよかった。(株)ガンダムの初期メンバーは楽しそうに和気あいあいと仕事をしている様子が描かれているが、ニケのスパイ問題からも推測できるように、アーシアンも決して一枚岩ではないのだろう。あの笑顔がいつまで続くのか?これも、いち例である。

 その他にも、スレッタ、ミオリネ、シャディク、グエルの関係もいつまで今のままいられるのか?ぼくの節穴から見ると、ミオリネはシャディクのことを愛している。もう、遅いというのはまだ間に合うということよね。いや、そうでもないのか?というか、よくわからないから、続きが気になるのかも。

 とりあえず言えるのは、引き金が恋愛であるのか、戦争であるのか、もっと別のことかは予想できないけど、今のままではいかないだろう、と。

 

 あ、起業ネタについてはもう一点あった。柄谷行人さんみたいなことを言っている人を見かけた。親からの経済的自立としての起業という視点だ。どの本か、忘れたが、こどものとき、友達関係は親を手段にすることで成立している、と述べていた気がする。他者を手段にするな、目的にしろという主旨だろう。それが事実にしたって、酷いことを言うもんだと思った。なので、その本は確か、途中で読むのを止めた。脱線。

 別にその視点にケチをつけようとは思わないが、『水星の魔女』をそういう作品といわれれば、つまり、親から経済的に自立する物語というのなら、まったく首肯できない。

 おとな/こどもが主題には見えない。やっぱ、ミオリネとスレッタの物語に見えるので、現時点はなんの物語であるかは言明はできないが、すくなくとも、ふたりの物語という線からは外れた理解はしていない。ただ、なんとなく別離の予感ある。予感ではなく、個人的嗜好か。

 

 あと、物語の多面的理解に違和感があるのかもだ。物語をいくつかの要素に分解し、あれも、これもと並べられても、ピンと来ない。鈍いのか。趣味の問題か。ぼくはひとまず、なんでもかんでも一点突破的に物語を理解したくなる。極言すれば、ひとことでいいきりたくなる。悪い癖なのかもだ。

 

 謎について

 スレッタとエリクトの関係。これはかなり事細かに考察されているようで、頭が下がる。とても参考になりました。ぼくはいろいろと面倒なので、姉妹と思っているが、この説は否定されていた気がする。

 スレッタの母、プロスぺラはなぜいつも大事な場面に居合わせるのか?ご都合主義ですみたいな答えではなく、それこそ、彼女が魔女だから?でも、名前から判断するとガンダムエアリアルが魔女なるよね。このへんからも、『テンペスト』元ネタ説を「強く」推すのは変な気がする。

 「ガンダム呪い」とは?なんだろ。ぼくは迷走していたのかも。その呪いの一端は操縦者の負担というのはわかった。が、それだけではないのだろう。圧倒的技術であるがゆえに争いの種になるということなのか?ぼくは医療技術への転換でその呪いがはっきりすると思っていたが、世相に、コロナ禍に引きずられていたのかもだ。

 

 『ぼっち・ざ・ろっく!』

 おもしろい。しかし、不思議なことがある。

 『よふかしのうた』のナズナやセリにぼくは似ていないが、精神的にはかなりえぐられる描写があった。

 後藤ひとりについては、ぼっちという共通点があるわりには、精神的にあまり削られない。

 なぜか?

 原作についてはわからないが、すくなくとも、アニメ制作者の中にぼっちな人がいないのでは?と感じる。このアニメはボッチ観察日記的描写になっているのでは?という感じ。別の言い方をすれば、ひとりによるぼっち自虐ネタアニメではなく、自虐風ネタアニメとなるか。あるいは、ぼっちあるある系というほうが伝わりやすいか。

 あのですね。ぼっちは多様ではありましょうが、意外と後藤ひとりみたいな悩みを持っていないわけです。

 つまり、周囲から観察、推測されたぼっちの生態を見ている気になる。なので、自虐そのものではなく、自虐風となる。

 ぼくにとっての本作のおもしろさはこういう風に見えていたのかと実感できた点にあったと思う。

 

 以前、後藤ひとりよりも、『DIY』の結愛せるふのほうがぼっちな人に見えると書いたが、きらら系で例示すると『まちカドまぞく』の吉田優子(シャミ子)や千代田桃や陽夏木みかんのほうがぼっちな人に見える。

 これはもうちょっと考えてみる余地がありそうだ。

 

 どーでもいいけど、お金にルーズな先輩ってめんどくせーやつだよな、と思いました。