たしかにそうかもと思える話 憶えていたら、また考えてみる
先日、クソ社会とかえらそーに書いたが、そんな指摘をしたところで、自分もその社会のいち構成員であることには変わりないし、さらにいえば自分がクソである事実を免れるわけでもない。それに、構成員といっても、あんまし世の中の役には立っていない。
別に卑下していない。単に実際、そうであるだけというお話だ。
そんな思いに耽っているうちに思い出した。そういえば、現代社会批判としても読める、見れる作品のその部分はだいたい見逃すことにしていたのだ。するどい批判精神に対し敬意を抱くが、そこにはのれないという忌避感がある。
ぼくもまたクソであるからか?
かもしれないが、どーも、そればかりでもないような。それ(社会がクソであること)とこれ(自分がクソであること)とは別みたいな考えでもない。
やっぱ、酔える/酔えない問題だろうか。気後れするというのはある。ついていけないという感覚。それと疎外感か。
どちらかといえば、なにを考えているのかが把握しづらく、ちょっと不思議ちゃんな綾瀬千早は苦手だ。しかし、家庭でも、学校でも、うまいこと溶け込めていない千早に夢中になれること(かるたをする)が見つかり、一緒に遊ぶ友達ができたのを見ると、ちょびっと舌打ちしつつ、よかったなと思える。ちと違うか。なんかいいものを見せてもらってありがとうございます、か?
若宮詩暢のほうが魅力的ですけどね。
ふたりとも愁いをたたえたキャラということか。
すごく脱線した。
クソ社会とかいってぼやいていないで、視野を狭くしてちんたらのんびりやっていこうと思います。とかいって、すぐ忘れて、クソ社会とか言い出すと思う。たぶん、おそらく、だいたい三日坊主。