冬アニメ メモ
早起きして、アニメ『平家物語』を見た。寒い。それだけでも一応、目は覚める。
10・11話をまとめて見た。
11話は『ユーフォ』と同時録画だったみたいだけれど、今どきの機械はそういうことが可能なのかと驚いた。といっても、過去にもそうしたケースはあり、自分が気づいていなかっただけだろう。
以下、メモ。
資盛とびわの関係は先日、書いたものは要修正だった。資盛の嘘にびわはのったうえで、さらに…ちょっと、これはまた考えよう。
映像に関してはよくわからない。雲と月には注目して見た。植物へのこだわりはイラスト集からも伝わってきた。これもまた、2周目でとくに注目して見たい。
見た直後の感想として残しておきたいのは、「祈り」について。
びわは母に再会することで「祈り」の可能性を知った。ただ、母のいう「祈り」とびわの、あるいは、徳子のいう「祈り」は同じものだろうか?という疑問。様々な祈りがあるという理解でいいのか。
と書いてみたものの、祈りについて特に考えたこともなかった。あまり、祈ることもないからだろうか。
本作の話に戻そう。
びわの祈り よくわからない。
徳子の祈り 鎮魂?鎮魂とは祈りなのか?
生き残った者が死者にできることは何か?
ぼくにできることがあるとすれば、思い出すことだ。楽しい思い出だけであったなら、それはいいのだが、実際にはそうでもないうえに、ひどくあいまいな形をしている。実にいろいろなことをぼんやりと思い出す。そして、なんだか悲しい。やっぱり、びわの視線に近い感覚だろうか。ちょっと、よくわからなくなってきた。
ひとつおバカな問いを立ててみよう。安徳天皇を会ったことのないぼくは思い出せるのか?できるとぼくは思う。びわのことは?無名兵士のことは?となってくるとどうだろう。
思い出すというよりも思い起こすのほうが正確かもしれない。
語り継ぐにも記録が必要ということになるのだろうか。記録媒体としてのネット空間?大きく脱線した。
タイムマシーンは実現不可能な技術であるほうがいいのかもしれない。たぶん、歴史の価値が失われる。できてから心配すればいいのかもだ。
もうひとつ不明な点。最後の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし たけきものもつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ」というところ、ここは死者と生者の声が混じっていたと思う。資盛はさて、どっちだろ?ここを詮索するのは野暮か。
それなら、ちょっと視点を変えよう。あの声を聞いていたのはだれか?視聴者!というお話ではない。死者の声も生者の声も聞ける人ということになるとびわということになる。とはいいきれないけれど、これもまた考えてみよう。
本作についてはおもしろかったというのも、たのしかったというのもなにかことばとしては違うような気がするので、美しかったという感想が適切かもしれない。最後まで関心が途切れることなく見ることができました。ありがとうございました。