秋アニメ メモ
アニメ『さんかく窓の外側は夜』について
すでにその種の指摘はあるとはおもうが、このアニメは家族というものがはらまざるを得ないキモさを描いていた。キモさって霊が見えるとか、呪いとかいう話ではない。妻と息子のためを思って、家庭を捨てた男の話として見ればというこになるが…しかし、主人公はその父親ではなく、息子である三角康介ともう一人、冷川理人。冷川についてはアニメでは彼の育った家庭の様子が描かれていなかったが、原作ではどうなのだろう。
うーん。こういうお話を書いてみたくなくなるのは、わかる気がするけど…いってしまえば、どこの家庭にも潜在的にこの問題はあるのに、なぜか、そこまで表面化しないのだろう。
とりあえず、思うのは康介と理人は一緒になるのよね?それが康介の父親が抱えた問題に対するある種の答えということかしら?
エヴァというか、ゲンドウとシンジの関係も、その問題。
『おおかみこどもの雨と雪』もその変奏か。
まーよくわからん。正直にいってしまうと、『メイドラ』はあんなに愉快な気分で見れたのに、『さんかく窓の外側は夜』の後半はきついものがあった。おもしろくないわけではない。
アニメ『見える子ちゃん』
遠野善の話は異質だった。この話に限って言えば、上記、『さんかく窓の外側は夜』に近いものを感じる。
ハナ 霊は見えないし、自身の生命オーラも見えない。
みこ 霊がとてもよく見えるが、ハナの生命オーラは見えない。
ユリア 霊は少しだけ見えるし、ハナの生命オーラも見える。
この世界観の異なる三者によるずれたコミュニケーションがなぜかうまいこといってしまうのを観察するアニメとして楽しんだ。原作の展開としては遠野善の話よりになっていくのだろうか。
意と型の問題
当世でなら、LGBTQとか、SDGsとかを「様々なる意匠」として作品の中心的なテーマに据え、扱いうるという意味で、意は似せやすいのだと思う。しかし、実際、作品に接してみるとはっきりとするが、いわゆる「百合作品」であっても、同性間の恋愛を描いているから、おもしろくなっているとばかりは言えない。見る側がつかう「尊い」ということばには複雑なニュアンスが込められているのだ。
それでは、尊いのは型であるのか?そうであるといえる場合もあると思う。これまで書いてきたことの繰り返しを避けるなら、『リズと青い鳥』の緊張を生むものも型と考えていいように思う。
『色づく世界の明日から』や『白い砂のアクアトープ』における青春期を幻想的な表現に落とし込むのも型と考えたほうがよさそう。
オチなし。
ただし、この青春期の幻想表現についてはもう少しだけ書いておこう。これはけっこうややこしい問題で、ぼくも普段、中二病とかいって、ふざけているのだけど、暗い調子で語ろうとすれば、いらでもそうなりうる代物。実際、中二病的態度を失ってはいないわけだし。あらかじめ誤解を退けておくと、<おとな>になれない大人問題ではない。なんだろう。ようは、これらの作品群は大人によってつくられ、大人が見ているのだろう。そういう人はだいたい中二病。その限りにおいて、けっして青春期に特有な現象とは言えないはず。
そして、その根源の一つは孤独の問題であり、もうひとつはなんだろうな…愛?で、感傷にひたってどーなるものでもなし。情緒の海を泳ぎ切れ、とかっこつけたりするのはどーなんだろ?みたいな。(かっこつけたというよりも、寝ぼけたレトリックというほうが適切だったかも。)自分でも、よくわからんので、こうして日記を書いたりしているのだろう。この日記が40年後、笑い話になるといいな。
いきなり結論にぶっ飛んでしまったようだが、仕方ない。
悲しいことにこういう人は一定数いるということになるのか。
ごはんは食べたし、風呂入って寝るか。
意外と今日は寒くない。一昨日あたりの寒さはなんだったんだ。