忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

不快な比喩がまたひとつ

 尾身さんは「宗教指導者」なのか?

 この「宗教指導者」についても「特高顔」と同様の理由で不快な比喩だと認識している。「さざ波」とも異なり、なにがしかの言い当てているところがあるならまだしも、本当に不快な評言だ。ただ、このことばをつかったひとはたしか自分で物書きを自認していたはずなので、こういうことば遣いになるのはある程度は仕方ないかとも思ったし、今どき、物書きを自認するひとも少ないのでこころで応援だけしているが、著作は買わない。なぜなら、おもしろくない比喩であることに変わりはなく、内容ではなく、文章があまりおもしろくないのかと予想されるので。

 ところで宗教指導者ときいて、ぼくが思いうかべたひとは麻原と天皇だった。尾身さんにそんな要素はあるだろうか?とすこし考えてみたが、ぼくはあまりニュースを見ないのでよくわからない。もしあるのだとしたら、不快とか言ったのは訂正しなければいけないか。かりその要素があったとしても、それでも面白くないことにかわりはなく、なんだろうな、そこはやはりポオの「鐘楼の悪魔」くらいの面白さが必要なんじゃないだろうか。物書きであるならよりそのハードルは上がると思う。まあ、なんでもいいや。

 

 尾身さんを「宗教指導者」と評言したひとが伝えたかったことはなにか?

 行動変容を強いるだけでろくな対策をとってないという話?なんだろう。そういうことを言いたい気持ちは少しわかるような気もするが、ただ、今の日本の感染状況を見て、ワクチンなしでワクチン接種国と変わらない状況というぼくの認識に間違いがないのであれば、日本の感染症対策は失敗だったようには見えない。というか、たまにテレビで見かける台湾に学べとか、ニュージーランドに学べという提言よりは今の対策でよかったのではないかとも思う。「ゼロコロナ」はやろうと思えばできるのだとしても、精神的にも、経済的にも維持が大変そうだ。変異株次第で日本の状況も変わるのだとすれば、ぼくの考えもあらためる必要はあるか。

 先日の繰り返しになってしまうが、失敗ではなかったものの、日本社会の抱える問題が顕在化したとは思う。つまり、この社会には問題があるということだ。ひとつは人口減社会における医療資源の最適化。もうひとつは世代間、性別間である格差。コロナ禍においてそのふたつを短兵急に解決しようとするのは無理なのだろうから、そこは後でということになるか?本当に手を付けるか、どうかはよくわからないけれども。まあ、ぼくには世の中の成り行きなんか、ちっとも見当がつかないや。

 

 『スーパーカブ』を見ていて修学旅行を思い出す

 といってもぼくの高校は修学旅行がなかったが。

 あの旅館で出てくる鍋料理、ぼくはあまり好きじゃない。でも、おいしそうに食べる映像なんかはやっぱいいものだな。こういうのはちょっと実写よりもアニメのほうがぼくなんかは好きかもしれない。そんなことを言い始めると景色も、あれも、これもとなってしまいそうではある。

 江の島にはコロナ禍がおさまったらいってみたいな。っていつのになるのだろう。歩いていってみようか。散歩で足腰を鍛えておこう。

 

 追記

 「ごみのような比喩」ということばづかいを「不快な比喩」にあらためた。

 「ごみような比喩」という文言それ自体がごみのような直喩だったのだ。