忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

どうすりゃいいのだろうね

 トランプさんがいう「ロッカールームの会話」だったっけ?猥談のことだろう。男は男たちの前で堂々と猥談ができてこそ一人前みたいな風潮。実のところトランプさんにそんな発想があるかは知らない。しかし、ぼくは御多分に漏れずこういう風潮が嫌い。学生だったときも、大人になっても、そんなひとを間近に見てきた。運動部の自称反省会なるものをしていたはずが猥談になっている不可解さから、目の前の椅子を蹴とばさずに抜け出す。そういう状況に不快そうな顔と沈黙と時々、脱出でのみ対峙した。この自称反省会なるものも、時に左翼用語のいわゆる「総括」を連想させる味わい深いものとなる。もちろんこれは嫌味だ。ちなみにぼくは左翼が華やかなりし時代の子ではないので、実際の「総括」がどういうものかは知らない。が、だれかの反省の弁を聞いて、「悪いのはお前だけじゃない」、「俺も」、「俺も」と雨後の筍状態、これこそぼくがこころの奥底で怖れる島尾敏雄の戦中体験そのものではないのか。で、そんな光景を目の当たりにして、猥談のときとは異なり出ていくわけにもいかず、黙って見ているしかない自分。あ。加藤紘一谷垣禎一の例のやりとりを思い出した。あれを何度も流していたテレビにも反吐が出る。茶番であって欲しいというぼくの願いもむなしく響く。彼らは大真面目であったはずだし、ぼくにそれを嗤う趣味もない。ある種の不快に耐えることだけが許されている。

 例によって脱線してしまったが、トランプさんだけが問題なのだろうか。ヘラヘラ笑って、それを聞いているひとたちはどうなの?結局はホモソーシャルな環境がいけないって話に落ち着くのかもしれない。そういう環境の中で担がれる人と担ぐ人の織り成す絶妙な権力構造。実のところ運動部の特色でもなければ、性差?性別?も関係なく、どこにでもある風景。どうしたらいいのだろう。ぼくみたいなひともそれなりにいるはずなのにこういう権力構造が生まれ、スルスルとことを運ぶ際の障害物にすらなりえない。

 森さんの失言について書こうと思っていたが、だらだらと別のことを書いてしまった。まあ、似たような話だと思うので、繰り返さない。

 ところで森さんより後の世代の政治家たちも同じような性質があるのだろうか?正直、自分のことを見れば、ぼくと同年代には性差問わずあまり期待できないと思う。(テレビをチラ見しての疑問、親分肌、姉御肌ということばについてひとは何を思うのだろう?)あからさまな失言は減るのだろうけれど、あの権力構造は温存されそうな気がする。というか、よその国はどうだか知らないが、今回のスポーツの世界で見えた風景は日本社会の鏡像だろう。

 ということで葉山隼人に期待する。葉山隼人主演、幕末大河ドラマ徳川慶喜』をやるなら、見てみたい。別に政治の物語として見るわけではない。