忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

起きているときに言う寝言の記録、その他

 アメリカでの騒動について

 Qアノンはオウムに似ているのだろうか?よくわからない。

 ただ、トランプは麻原のようにはならなくてよかったと思う。悪い予感は外れたほうがいいに決まっている。

 選挙に勝つこととテロを起こすことの違い?

 政治への動員ということでは同じようなものでも、内実は全然違うことなのかもしれない?

 ぼくはオウム事件と向き合うことから逃げているので何も言いうことはできない。なぜ逃げているのか?ぼくの目が節穴だったからだ。すでにこの日記にどこかにも書いた記憶があるが、代々木で変な踊りをしている「だけ」のひとたちと思っていた。当時はガキだったから仕方ないじゃないかと言い訳をしたいところだが、歳を重ねた今になってもたぶん節穴のままだ。そんなこともあって、正直、Qアノンが怖い組織には思えない。希望的観測で何も起こらなければいいなと思っているだけ。

 レーニンはどうなのだろう。革命では成功して、選挙では負けたような気がする。調べるの面倒だ。そういえば、今でもレーニン廟って残っていたかしらん?

 オクラホマボマーに関する背景的な事情とか、少し調べてみようかなとか。どこの国でも狂った情念が生まれては消えていくのだろうか?うーん、よくわからんといって自己防衛することになりそう。

 

 上述したことに関連してということでもないが、政治家の演説について

 トランプは演説というか、おしゃべりがうまいのだと思う。

 全然タイプの違うブレアをぼくは結構好き。というのは彼の演説が好きということでもあり、ただ、思い出補正もある。思い出はひとまず忘れるとして、ぼくは単純に演説の上手な政治家を好きなのだ。この場合の上手というものは熱意のこもっているというような意味合いが含まれる。

 で、そういう演説に熱狂するのはファシズムではないのか?という指摘。その通りだなと思う。なので、菅首相の演説は聞いていないので、何とも言えないが、あまり上手ではないのだとしたら好ましいこととして受け取っておく。また、演説の上手い、下手ではなく、政治は結果として何を残すかが大事という指摘にも返すことばはない。

 ただ、新型コロナ対策についても、そのような指摘が当てはまるのかは少々、疑問が残る。

 未だにぼくがよくわかっていないことのひとつに政策介入の有効性の問題がある。欧米とアジアの被害状況の違いについて巷間ではよく言及されているみたいだが、それは政策の違いによるものなのか?地域差?このへんのことは調べれば、分かるのだろうか?あるいは、分からないままということもあるのだろうか?

 かりに政策介入の有効性がそれほど大きいものでなかったとしたら、政治にできることのひとつとして国民を励ます演説の重要性は増すかも?でも、しゃべりが上手であれば、ひとを元気にできるわけではないであろうし、励まし方は話者の人柄(良い人柄と悪い人柄があるみたいな話は嘘だと思っている。人柄に良し悪しなんてない。)によって変わってくるのだろう。しゃべりが下手くそでもひとを元気づけることはきっとできる。

 で、結局のところ、上手すぎるのが危うさをはらむことには変わりがないとも思う。何を書いているのか、自分でも意味不明だが、そんなことを思った。

 

  菅首相に『樅ノ木は残った』における原田甲斐的役割を求めるのは嫌い

 不人気な政策を実現して退陣してもらおうみたいな話?本人が望むのなら別。でも、この望むというのがけっこう曲者ではある。それは本当に本人の意志であるのか?難しい問題だと思う。『樅ノ木は残った』を好きなぼくがこんなことを書くとものすごく説得力がないという自覚はある。また、外野のぼくのことばが雑音でしかないという自覚もある。外野って酷いことばとは思うが、政治家がそういう決断をするとき、国民を意識しているのだろうか?その時、彼らの頭に思い浮かべられるものはそれでも自民党とその背後の利益団体ではないのか?

 が、それも仕方のないことなのか。「定めじゃ」(錯乱坊風)

 

 悪意なき残酷さ その3

 マイブーム(死語?)のようなもので、あれはそうか?これは違うかも?とやっている。それで、思い出したもの。岡本かの子『老妓抄』の心中しますか?というような場面。それと山本周五郎『虚空遍歴』の死んだ夫に対する妻のひと言。どうなんだろう?こういうものが人間の本質という物言いは大袈裟な気がするが、そうでもないないような。ただ、そういうものに触れると生きている実感がわく。

 そして、こういうものは何か文学作品にふれて感じる特別なものかといえば、おそらくそんなことはなく、日常のそこらへんに転がっている。ってことにして、ひとまずこの辺でこのマイブームは終わりにしよう。