忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

コロナとの共存あるいはwithコロナについて

 以前、このことばが日本でなかなか語られないと、ボヤキではないが、書いたわけだが、もう当たり前のように使われることばになったように見える。

 それで感じることは、このことばはつまるところどのような意味で使われているのか?という問いの疑問である。多くの場合は、コロナの完全なる消滅を目指しても、できるわけがないし、仮にやったとしても、そのことで失われる経済的利益を考慮すれば、共存という道を歩むほかないという意味合いだろうか?

 もしそうなのなら、少し仔細に見ていきところもある。

 以下メモとして箇条書き

 

 ・コロナ対策による損失とコロナ対策を徹底しないことによる損失

 前者はネットを見るに経済悪化による自殺者増が語られることが多く、自殺者はおそらく現役世代を指していたのだと思う。

 後者は重症化リスクのある人、基礎疾患のある人、高齢者

 これを天秤にかける?政治家が決断すべき?この点は自分はそうは考えない。そういう決断をできるひともいるのかもしれないが、できなかったとしても、それは政治の責任には思えない。また、やはり現状を見ても、日本はそれが行ってきた政策の正しさを証明するものではないのかもしれないが、悲惨な事態には至らなかった。その点は、特に記しておく必要があると思う。

 

 ・二つのリスクを天秤かけること、あるいは、トロッコ問題として語られることについて

 コロナとの共存ということばがこのような文脈で語られるへの嫌悪のようなものがぼくの中にある。それはなぜか?

 コロナとの共存というのは、コロナを消し去ることができないのなら、ともに生きていくしかない、そのほかの風邪と同じようにと意味で使われていたのではないか?その他の風邪について、トロッコ問題を想定したりするのだろうか?トロッコ問題として語りうるとことは理解できなくもないが、そういう点にだけ着目するようなことではないように思う。

 では、他の風邪と同じならただの風邪なのか?これはよくわからない。しかし、ただの風邪でも自らその風邪にかかろうとは思わない。ただの風邪だってかかればしんどいことには変わりない。若い人ははやくコロナにかかって経済を回す側にまわればいいみたいな発想はなんだかおかしいように思う。

 自分の生活の仕方としてはこれまでとそれほど大きな差が生まれるとは思えない、と強弁したいところだが、実のところはそうでもない。変わりないのなら、去年の夏のようにマスクをせずに外を歩いているはずだ。

 

 ・コロナと共存ということならPCR検査はいずれは必要なくなるということ?

 他の風邪同様に、PCR検査はしなくなるのだろうか?

 

 経済苦による自殺、これは何かうまいこと減らすようなことはできないのだろうか?コロナ禍と限らず、この問題はどうしたらいいのか?これについてもわからない。