忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

歴史の見方

 まず、大前提として、歴史の見方というようなことを時間をかけて考えたことも、勉強したこともない。でも、仮にそうしたことをやってもほぼ歴史の見方というものは今のものとそこまで変わらないのではないのかと思う。

 その見方とは歴史の流れのようなものが仮にあるとして、それは人間ではどうにもできないようなものというような感じ。歴史そのものが人間の思いとは関係なく、意志をもって生きているように見えるとかいうと大袈裟な気もするけれど、そんな感じだろうか。

 まあよくわからんのだが。

 そんなことをなぜふと思ったのかと言えば、世相が少々騒がしいからと言い訳してみる。この手の騒々しさは大体苦手ではある。まず、ぼくには今が歴史の潮目なのか、否か、判然としない。このことは近年では安保法制の時も思った。毎度おなじみのとか書くと、馬鹿にしたような書きぶりにとられるかもしれないが、当時も「軍靴の音が…」というひとは出てくる。それはぼくにちっとも聞こえない。なので潮目とは思えないわけだが、今後の歴史の展開如何でそうである可能性は否定できないわけだ。

 そこでわくひとつの疑問。最近も「天皇機関説」攻撃やら「滝川事件」やらに言及する人がいる。まず、そのときが潮目だったのかはよくわからないが、輪をかけてよくわからないのが当時の人の認識。彼らはそのときなにかおかしな方向に世の中が進んでいると認識していたのか?もうちょっと正確に書けば、そういう認識は世間で共有されていたのか?かりにそのような認識が当時のひとになかったとして、現代のぼくらは彼らになにか言えることはあるのだろうか?後知恵で当時のひとの至らない点をやっつけるのは実に簡単なことだ。なんなら、おなじみの騙された国民図式に乗っかり、彼らに免罪符をあげることもぼくらにはできるのだ。しかし、そんなことに何の意味があるのか?実に嘘くさい。そんなことやってられるかという結論になる。

 なぜぼくはそんな結論にいたってしまうのか。きっと、まず、ぼくが歴史から失敗を学び、それを反省して、次の時代に生かさねばならぬという姿勢がないためだろうと思う。でも、歴史の勉強ではないかもしれないが、過去のことを知りたいという思いにかられることはあるわけで、これは単純な知識欲というものではないだろうし、それとは違う何か別の感情の働きに従っているのだと思う。その感情のベースにあるものはヒトの積み重ねてきた悲しみではなかろうかと勝手に思っている。