忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

少しだけ調べてみたのでメモ

 昨日の日記で気になっていたこと

 ヨーロッパ 中世の笑い なんとなく笑てってはいけない時代だったという認識。それは間違いではなさそう。

 ルネサンスに入るとそうでもない?

 ただ、背景に宗教改革にあるのはおさえておかないといけないというのは『ヒューマニズム考』でわかった。凄惨な出来事が絶えず起きていた時代。

 

 笑いが不真面目といいたいわけではないが、ガチの真正面からの批判を行うとカルヴァンとおなじ道のりを歩むことになり、ラブレーにとっては不本意。で、ぼくの最初の印象ではラブレーに最後に残された旧教会批判の手段としての笑いという位置づけ。でも、調べたら、これはどうも違うっぽい。ラブレーというひとは消極的に笑いという手段に訴えたわけではなさそう。笑いが好きだったのかも?当時のひとから見ても、かなりお下品な笑いだったようだ。うーん、そこらへんがどうにもぼくにはわからない。日本だと宮本常一のいう笑いみたいな感じなのだろうか?

 あともう少しちゃんと考えておけばよかったと思うのは、権力への迎合として生まれる笑いとしての側面がラブレーにものにもあったのか?この種の笑いについては不快なのであまり考えないようにしているが、ラブレーに関して言えば大事な点だと思える。ようはラブレーが旧教会批判への動員の手段として笑いを有効と考えていたのか?そこは見ないといけないのではと。どうなのだろう?渡辺一夫はきっとそんなふうには見ていない。たとえ負けても、笑いで戦う姿勢を描いているように見えたので。ん?負け前提な権力闘争ってありえるの?「負け前提の権力闘争」、このことば自体、きっとヘンテコ。ラブレーは笑いが好きなのだろうな。勝とうが、負けようが笑いで行くんだって感じ。すくなくも渡辺一夫そのように描いていると思う。その感覚はやっぱりぼくにはないかもだ。笑いが人間であることに大切ってことなのだろう。

 まあ、でもぼくも笑いは好きかも。『安達としまむら』とか『坊っちゃん』とか声にこそ出さないものの、愉快な気分、にやにや笑いながら読んでいるのだし、だれかと話しているときも同様。それでも、よくわからんのはなぜはひとは笑うんだ?笑いってそもそもなんなのだろう?

 ちょっとラブレーには興味がわいた。

 瀬戸際な状況にある社会を見て、これが笑わずにいられるかというような悲劇性が根底にある笑いなのだろうか?

 宗教改革という悲惨な出来事に直面したとき生まれる笑いとその文脈をとっらぱらったところから生まれる笑いとの間になにか違いはあるのだろうか?戦中を生きた渡辺一夫さんに聞いてみたかった。平和で豊かな時代を生きているぼくからするとそこになにも違いはないと思う。というか、違いを認めたら、笑いってすごくちんけなものに見えてしまうのだが…まあ、いろいろとわからない。

 

 モンテーニュは『エセー(一)』というのが本棚にあったので、これを読んでみる。少々、笑いに疎くても問題なさそうなので、楽しみ。

 『ヒューマニズム考』を読んで知りえた範囲でもモンテーニュモンテーニュでいろいろと面白い。相対主義的なものの見方。それができるひとは今でもごくまれにいる。ツイッターでもそういうひとを見かけるけれど、ドキッとする。

 まあ、ぼくにはできない。ぼくは別の意味で相対主義的ではある。それぞれだよねっていう意味の。そして、それが通用しない感じになってきているような気もしている。はーメンドクセー

 ところで、(二)以降はどこにあるんだ?本屋?緊急事態宣言中は本屋はあいているのか?明日からではないのか。うーん、いろいろと心配だな。