忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

もう少しだけ考えてみた

 『イエスタデイをうたって』についての感想ではなく、寂しさというか、暗さというか、そういうことについて。

 まず、これは思春期なり、青春期にありがちななにかなのかというとよくわからない。そんなものはとうに過ぎ去った今の私にもそういうものがいまだに消えずに残っているともいえるし。

 この淵源を探ってみないことには手を付けられないものという感触はある。うーん。さっき書きかけて、うまいこと書ける気がしないので投げ出したこと。それは自分というものを理解してもらえない寂しさ、これは自分自身でも自分のことがよくわからないということを含む。

 思えば、この備忘録以前の手書きの日記を始めたのも、それがきっかけと言えばきっかけである。よくわからないから書いてみる。何がわからないのかと言えば、自分のことが。そんな感じでスタートしたので、自分が面白いと思ったものなどに対する感想のようなものがこの備忘録でも非常に多いわけで。そんなことをしているうちに徐々に社会への関心は薄くなっていき、こんにちにいたる。まあ、社会への関心の喪失はそれだけが原因ではないが・・・・

 で、このひとからはわかってもらえない寂しさはそっくりそのままひとのことがわからない寂しさでもある。雪ノ下が比企谷に似た者同士と思っていたけど、自分とは全然似ていなかったといったとき、そこまでわかれば、大したものじゃないかと、見ているこっちは感動してしまう。自分にはこれほどはっきりと誰かを理解するということがかつてあったのだろうかと。犬語を理解することはできないけれど、なんとなく飼っていた犬ことのほうがかつて自分とかかわったことのある人間よりもわかっていたような気がする。

 わかってもらえない、わかってあげられない問題ってのはやっぱりよくわからないところがある。わからないというのは、自分の中ではっきりしないというだけの話だが。

 

 話は変わる。万葉集を読んでいてひとつ思ったのが、鳥とか、花とか繰り返し出てくる表現について。繰り返されるうちに形式化して、陳腐化するということにはならないのだろうか?きっとならないのだろう。それがわかるまで、繰り返し読んでみるかと思っている。

 で、『イエスタデイをうたって』の湊が撮ったハルの写真。あのなにか物憂げな寂しい表情というのも形式化したような表現ともいえるのかなと。学生の頃にああいう表情を自分に見せてくれたひとは男女を問わず、あまりいなかった。ゼミの時とかたまにドキっとしてしまったものだ。もちろん、男女を問わず。あのドキっは好意の端緒ということでもなかった、自分の場合。まあ、あとは寝顔か。高校の時などいろいろな寝顔をみれたものだな、授業中に・・・・

 で、その寂しさを表す形式的な表現であったのだとしても、ぼくはやっぱりあのシーンが好きだし、陳腐化しているとも思えない。これはなぜなのだろう。この辺のことについてまた考えてみたい。