忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ

 コロナ禍について

 4月の段階でコロナはただの風邪と変わりないという意見は度々、目にしてきた。そのときも不思議に思ったし、今でも不思議なのだけれど、テレビで不安をあおっているとされるような人たちにもこのような思いが去来することはないのだろうか?と。まあ、私の場合は、仮にテレビで不安をあおるようなことを言っている人がいたとしても、その人を熱心に批判しようとは思わない。

 また、一部の専門家がとんでもない数値の推計をだしたと批判される件について。これもよくわからない。これもまたかなり早い段階で、緊急事態宣言によるソフトロックダウンには効果がないと主張する人たちによって「42万人」説は批判されていた記憶。その当時の私にはどちらの意見が正しいのかを判断する材料がなく、本当に遠くから眺めているという感じだった。もちろん、高みの見物というようなものではなく、ただ話についていけないだけだった。仮に、当時、どちらかの意見に自分が傾いたとしても、自分にできることはうがい、手洗い、マスク、ソーシャルディスタンスと。当たり前のことしかできなかっただろうから、ある考えに至ることでなにか生活の仕方が変わったかというと何も変わらなかっただろうとは思う。

 また、このことについては専門家に対する私のような素人のある直観に基づく批判というのは何なのだろうか?という疑問。その手の批判について、意味があるとか、ないとか、そういうことを言いたいわけではないだけど・・・・

 以上のこととは別にPCR検査について

 今がどうなっているのかは正直よくわからないが、当初PCR検査は日本の場合、的を絞ってやっていると理解していた。安心をうるために大勢の人を対象とするのは効率的でないという指摘には納得した。ところが、最近、この手の指摘をしていた人なだと思うが、安心をうるためのPCR検査を求める人のニーズにこたえることできていなかったというような主旨の文を読んだ。なぜそんなことを言うのだろう。不思議だ。

 自分はツイッターをやらないからわからないのだろうか?まず、だれに向けて、ツイッターのことばはつぶやかれているのか?たとえば、今書いているこの文章は明確に自分に向けて書いている。その人は誰に向けて書いたのだろう?そこがまず疑問。

 また、これは疑問ではないが、丸山眞男が「亜インテリ」と称していた様な人たちのいうことをを信じた国民、あるいは、ある社会学者からすればからくりの存在する神秘体験にだまされた新興宗教の信者、それとコロナ禍における安心のためのPCR検査を求める人々。

 なぜこの三つをならべたのか。このひとたちはからくりがあること、まやかしであることを理解したら、自分の考えを捨てたのだろうか?という疑問が残るし、こういうひとたちがいるという前提自体がそもそもぼくには成り立ちそうには思えない。小林秀雄が事変に「黙って処した」といっていたようにこの度のコロナ禍においても、多くの人は黙って処したのではないか。PCR検査をやって安心が欲しいというようなことを言っていたとして、それはそれほど強い主張でもなく、この状況の中に適応して生きていこうという人が多かったように僕には見えていたのだ。

 

 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』3期

 待ちに待った。1話目を見た。これはすこし貯めてからまとめて見ようかなと思えた。家族の話が中心に来たりするのだろうか・・・・「毒親」ということばがきらいなのだ。そういう話なのだろうか。親だって他者なのだから・・・・という思いがある。自分は親のことが好きなのはそうなのだけど、まあ、書いていると悲しくなるが、自分は親のことがよくわからないし、親も僕のことはよくわかってないだろう。それなりに話しあってきたのだけど、どういうわけかいろいろ平行線。

 埴谷雄高が『不合理ゆえに吾信ず』を書いたときだっけ?大岡昇平が埴谷のことをわからないと言われ、悲しがっていたように思う。そういう悲しみはなんとなくわかる。でも、まあ、なんというかこれは甘えた願望なのだろうな。

 それと度々、このアニメのどこにj自分がひかれたのかを考える、というよりも探り当てる作業がなぜだかはよくわからないが楽しい。

 『やがて君になる』についてもこの作業をやってみたいなと思っている。

 

 万葉集について

 このところ少々さぼり気味。歌をつくってみようとおもったのだけど、まだやっていない・・・・