忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

いくつかの話をごちゃごちゃしたまま書く

 何から書き始めよう。

 風呂に入ってるとき、散歩しているとき、なにかについて理解が深まったなと早合点をして文章にしてみるとちっともそんなことはなかったってことはよくある。また、そのときには書こうと思っていたのになぜか書き忘れることも多々ある。それが実は肝心なことであったりする。

 つい先日も、テレビにおける大衆批判に文句を書いたのだけど、その要の「大衆の原像」を無視したような物言いが気に入らないというのを書き忘れた。これも、思えば私の勝手なテレビに対する期待なので、余計なお世話に過ぎなかったかもしれないと思える。でも、テレビの中くらいではないかなと、「大衆の原像」を想定して何か語りうるとすれば・・・・

 また、この関連でいえば、『フランシス子へ』についても書き忘れたことがある。この本を書いた人は近しい人から悪魔の翼が生えていると言われたことを。糸井重里に私が苦手意識を持っているのは吉本のそういう部分に彼が触れようとはしないところにある、と以前に書いたのに自分も触れなかった間抜け振り。

 吉本が残した発言で様々な不可解な発言があるのだけど。麻原を死刑にするようじゃだめだという話。それが最近、自分なりに分かりかけてきたような気がしている。今『珈琲屋の人々』というのを見ているのだけど(2回目までは見逃している)、はじめは『居酒屋兆治』のような雰囲気かとも思ったが、違った。犯罪者の社会復帰、視点を変えれば、いかにして社会は犯罪者を受け入れるのかという話。『さらざんまい』を思い出す。意外とネットでの評判は厳しいものもあったなと。それ以前の作品、より限定していえば『輪るピングドラム』との違いとなるのだと思うが、前者は人情というものをベースに置いていたということなのかと。言い方は悪いかもしれないけれど、その作品を見る側に犯罪者が受け入れやすいような作りになっていると言えばいいのだろうか。『輪るピングドラム』はそうした見る側への配慮は希薄だったように思うし、稀薄であったがゆえに私などはひきつけられたわけだが。あの物語の背景として、あの事件を扱うことの意味。

 正確に受け取れたのかはわからないが、吉本はひとの人情に訴えていたわけではなかったのだとおもう。で、わたしは彼のことばをどう理解し、自分なりの意見としてここに書き残しおくか。

 

 あの問題を受け入れることもできないような社会は嫌だ。これは人情から発したことばではないぞって。

 

 それにしても、吉本ってひとは自分の読者との決別を招くような発言をできるひとだなということにはちょっと感動してしまう。それと同様な感動があるブログでも感じたことがある。それのブログに出会えたのも思えば吉本についてネットで調べているときだったな。

 それはそれとして、『珈琲屋の人々』は面白いので、最後まで見ると。

 ああれ、もうすでに何かを書き忘れている気がするが。

 『イエスタデイをうたって』が終わってしまった。なにか急転直下な。あれは原作通りなのだろうか。どことなく陸生と宗介は似ているような・・・まあ、あまり関係のない話ではる。このアニメは人の表情がなんとなくいい感じでセリフがやかましくない。あと歩くスピードとか。距離が縮まる描写、陸生がゆっくりになったのか、しなこ(変換にでてこない)が早歩きになったのか、おそらく後者だな、陸生は鈍そうだしみたいな感じがとても好き。時間の描写がうまいってことだろうか。一つの部屋を光の量で時間経過を表してたりするのも、きれいな映像だったなとおもう。面白かった。

 あと平塚先生と柚原といい、それぞれなんかいい感じだなって。たばこいいですか?って聞き忘れることもあった自分。まあ、今では人前で吸うことも減ったな。たばこ文化みたいなものも消えるのだろう。

 あ、やっぱ書き忘れていた。吉本の発言について。これは年を重ねてわかるというような話ではないなと思ったこと。歳を重ねて人としての経験をつんでというようことではない。きっとわかる人はすぐにわかったのだろうなと。自分は実に5年くらいかけてわかったような気になっているという話。なんか自分勝手にひとつの区切りがついたなとか、さっき風呂で思っていたのだった。

 これは書き忘れではない。『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』のどこを自分が面白いとおもっているのか。いろいろのあるのだけれど、出てくる人の行動のちぐはぐなところ。善意でやっていることが裏目に出る。生き方がへたくそ。それって自分自身のことでもあるし。笑えはしないのだけど、面白いなと。