忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(アニメ)

 原作のラノベのほうは未読なので、アニメについてしかいうことができないが、面白かった。感じたことを脈絡もなくつらつらと書いていこう。

 『化物語』との違いについて、化物語では男女の関係の微妙な違いを視聴者にはっきりと示していたように思う。暦とひたぎ、暦と翼、あるいは泥船とひたぎ。このそれぞれの微妙な差異が生む物語というところにわたしはひかれた。この差異はキャラクターの個性からうまれたようなものではなく、未だに自分でもよくわかっていない。

 一方で、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』はどうか。八幡と雪乃、八幡と結衣の関係に差異があることはわかるもののそのことがこの物語の何かしら大事な要素になっているのかというとよくわからない。

 そういえば、『シュタインズゲート』に関するツイッターで岡部と助手の関係が対幻想、鳳凰院とまゆりの関係が共同幻想という指摘を目にしたとき、非常に納得してしまったことを今思い出した。

 話を戻して、雪乃と結衣のキャラに違いがあり、その違いに八幡との関係があることはわかっても、それではそれがどのようにこの物語に作用にしているのかが自分にはよく分からなかった。平塚先生という存在についてはまた今度考えてみるとしたい。

 八幡がどちら選ぶのかという点に関心がないわけではないけれど、それよりも気になってしまうのは、「本物」の正体のほうだった。こういう話の自分にとっての出発点は漱石で、今でも思うだけど、漱石は国語教科書から消えてよかったのではないかと。純粋病というか、本物病というか、名称は何でもよいのだけど、青春ブタ野郎風に言えば思春期症候群?この手の病にかかる学生を増やす原因は漱石にあると思う。八幡が欺瞞と糾弾する偽物との違いをはっきりと示してくれとはおもわないけれど、なにかしらの示唆程度には期待している。

 結局私がこのアニメで気になったのは「自意識の怪物」ってところなのだろう。この文にせよ、それがそうさせているのだ。自分への慰めにしかならないとわかっていてもとりあえず書いてみる。文学の毒にあてられたひとの哀しみみたいなものだろう。そういう部分もあって原作が気になった。