忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

平成が終わるという話のような

 自分が鈍感なだけというべきか、平成が終わるという話を聞いてもどうにもぴんと来ない。私個人についてだけ言えば、特に価値観を揺さぶれるようなこともなく生きることのできた時代だったように思う。昭和の終わりに生まれ、よく昭和という時代を知らぬままに平成になり、その平成も終わるのかという何とも言えない気分。

 私の祖父は叶うことがなかったが晩年サイパンに行きたがっていた。戦死した知人に対するなにがしかの思いがあったのだろう。今になって私が後悔してることは祖父や祖母は昭和の戦争で価値観がひっくり返るというような経験をしたのかを聞かなかったことだ。私が好んで読んだ吉本隆明はその種の経験をあったのだろう。こういう言葉が適切とは思わないけど、どういう年齢で場所でといった環境による違いみたいなものはあるのだろうと思う。

 自分はそういった意味でものすごく恵まれた環境で平成という時代を生きることができたのだと思うのだけど、こういいきっていいものか、どうか。

 皇室について思う部分はある。そもそも明治維新の志士たちはなぜ皇室を国の中心にすえたのか。昭和の戦争を経て、なぜ今の皇室のようなイメージ作りをしたのか。実に過酷なものを人に強いているようで何とも言えなくなる。

 そういえば、そろそろ『進撃の巨人』も終わりが近いのだろうか。エルヴィンの物語にひと区切りがついてからは前ほどに楽しめなくなってきたのだけど、面白いので続きは気なってしまう。巨人の継承され方など知ったときは随分とひどいものだなとおもった。またマーレにおけるエルディアの生活の描かれ方などもきつかった。ジークの思いはそういうことに対する一つの答えということか。しかし、これを平成の宗教事件と同一視する発想は自分にはない。

 「造悪論」という言葉を知ったのはこの時だった。吉本がなぜこういうことをはっきりと言ったのか、その思いは自分にはよく分からない。沢山の団塊の世代の読者が離れたと聞くが、その通りなのだろうか。この発言以後にこの著者に出会った自分は離れるもくそもなかったわけだが・・・ただ、愛猫についてああいう書き方のできる人と同一人物というのであるから、びっくりする。

 糸井重里という人が苦手なのはこの部分で愛猫に接する吉本だけを世間に紹介しているようで自分は何とも言えない気持ちになったのだけど、先日見た芦田愛菜さんとの対談で自分のほうが間違っていたと思いなおした。あの対談は部分的にすごく楽しかった。自戒を込めて何かわかった気になるのはやめようと思いつつ、軽率だから、そうもいかないよなと思う。

 あとまた『やがて君になる』についてはいろいろと書いてみたい。あのアニメにあるような後ろめたさって自分にとってはひっかかる。

 随分と日記をさぼっていたようだということが今日判明した。