忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

先日の日記に関連して

 たとえば、連載作品の続きを予測しながら、読む。

 そのことと一旦、作品が結末を迎えると、その結末から、逆算して作品を解釈する。

 この関係。

 自分の人生回顧とか、歴史の記述とか。

 同構造になる。人生については、本当に死んでしまったら、回顧できなくなるけど。回顧はある時点を一応の結末と仮構して?

 予測と逆算なら、逆算のほうが辻褄合わせ的嘘くささが漂う。当たり前か。未来方向には嘘はつけないからか。嘘になるか、どうかも、わからない。てきとーなことは言えるにしても。

 

 出かける。

どーしても

 男であるとか、女であるとか、ついているとか、ついていないとかというところにこだわるのであれば、まひろがどーして女の子として生活できているのか?この点を考えてみるといいのでは…と思う。

 『お兄ちゃんはおしまい!』の感想をいろいろ漁っていて、そんなことを思った。

 ぼくはこの作品を見ながら、ついているとか、ついていないという違いにあまり着目することがなかったため、この点にこだわった感想をあまり理解できないのだけど、まひろがそれほどぎこちなさもなく、女の子生活を送れているところは不思議に思う。が、一般に、人間というものは朝、目が覚めた瞬間から男は男になり、女は女になったりするわけではない。実は一日の間で男であったり、女であったりする時間というのはそれほど長くないのでは…それにしたって、その長くない時間であっても、男だった人間が薬で女性になったとして、なぜかそれほどのとまどいもなく女性を生きることができるのは不思議と思える?

 本当に不思議だろうか?

 どーだろ。まあ、なんと言いますか、意外とまひろのようにだれでもできるのではないかと思えなくもない。要は、非常に強固なにかに支えられている?拘束されている?ような人でない限り、意外と自分の性自認というものは崩壊しやすいでは、と勝手に思っている。ぼくなんかは百合作品を読んで、かなり簡単に壊れた。

 余談になるが、崩壊しやすいから、いろいろ迷った末、ノンバイナリーと自己を規定する人が一定数、出てくるのはそーいうもんかな、と思う。もう、わかんねーよってなると思う。なので、本作の主題を性別転換とするのには違和感がある。余計なことを書いてしまったな。

 お話が逸れた。

 しかし、問題は男がなぜ女としても生活できるのか?という点にある。これはなんとなく、男は男についても、女についても知っていて、知っている範囲で生活可能ということだろう。(女は女についても、男についても知っていて、以下略)

 まひろもそうなのだろうと思う。

 

 ぼくは本作は見た目の変化を扱った作品と思っているので、上記のような見方とはアクセントの置き場所が明確に違うが、自分とは異なる意見を高める練習をしてみた。難しいな。高められていない気がする。

 あと、まひろが主人公だとして、この作品はみはり視点からのもの、と解釈するとおもしろいと思っている。

 

 ちとことばが足りていなかった。自分でもイミフになるやつだ。

 まひろが女性として生活することへの戸惑いみたいなものを描いても、よさそうなに、そうしなかった点が本作の美点と感じたのだった。これが起点。

 

 あ、人間は兄にも、姉にも、妹にも、弟にもなれるのかもだな。ひとりっこでも。

ちょっとよくわからない

 『虚構推理』

 タイトル通りで、推理モノでは「ない」のでは?むしろ、そこへの批評性を検討する方がおもしろくなるのでは?という気がする。

 だれかをディスることになるのかもだけど、おそらく、考察系と称し、予測を主軸に置いたような批評なり、感想なりをしている人たちに『虚構推理』という作品は対置できると思う。推理モノであったら、まさに、その予想とは推理に該当する。たぶん、自分で考察して、その推理を正確に予想するのが楽しいのだろうけれど、それはいったい何をしているのか?という問い。

 ぼくも、アニメだけじゃなくて、何らかの作品を鑑賞しているとき、その作品の先を予想するというのは実は常にやっていると思うだけど、その予想をするということが実際、なにをしていることになるのか?というのはけっこう難しい問題と思っている。

 なんだろう。

 例えば、先の予測がずばり的中してもなんの爽快感もない。大きく外してもやっちまった感もない。

 『虚構推理』の感想で、推理部分が未消化で、爽快感がないという感想を見かけたけど、実は、それがこの作品で試していることのひとつではないの?と感じるけど…なので、こういう感想を持つ人は実は、正確に作品を解釈しているとも言えるのでは…で、爽快感がないというところで止まらずに、その爽快感のなさというものを突き詰めて考えてほしい、で、どこかに感想を残してください、みたいな。ぼくは自分でそれをするのはめんどいので他力本願。

 

 しかし、雪女のお話はおもしろいと聞いていたので、楽しみにしていたけど、いまひとつ、わからない。女難というのはそうだとおもうけど。

 

 とりあえず、いえることは『虚構推理』のおもしろさは種明かしされて、すっきりみたいな作品ではないところにあると思う。

 

 昨日の続き、『転天』の魔法について補足。金や権力に焦点化した作品はほかにもあるので、そこに魔法が絡まるとどんなお話になるのか?という関心。ただ、10話で魔法の才に恵まれた令嬢の行く末が暗示された。やっぱ、とてもいいところで終わってしまうのか。1期。もしくは、この作品もすでに2期が確定しているのか?

 

 『おにまい!』はおもしろい。まひろは神社でなにを祈願したのだろう。男に戻ることと考える人もいるだろう。でも、それはないんじゃね?とぼくは思っている。今の生活をまひろは明らかに楽しんでいるよね。オタク生活への復帰を望んいるようには見えない。なんつーか。この作品はけっこうややこしい問題を扱っていると思う。性別変換云々のお話だからややこしい、と言いたいわけではない。見た目が変わって、違う生活を知って、それを気に入りつつある。最重要人物はみはりと思う。自分で兄を女性にしたのに、なぜかお兄ちゃん、と呼んでいる。不思議だ。さらに不思議なのは妹のように見ているようでもある。寅さんと櫻みたいなものとも違うような。手が焼ける兄的な?よくわからん。

なんかちょっとわかる気がする 冬アニメのメモ

 『転天』

 現世でいうと金と権力ということになるのか。これに魔法という要素を加えて、人間というものを描こうとしたということかしら。階級、貧富みたいなお話になるのだろう。古くさいお話にもおもえるし、ぼくの好きな主題でもないけど、おもしろく見ている。

 それと魔法という要素を入れたのはすごく実験的という気もする。考えたこともないけど、作品におけるとは魔法とは、一般論としては何なのだろ。この作品は生得的要素としての主に描かれている気がするけど。

 

 金、権力、自由

 金、権力、魔法 この作品は別に魔法が自由を代替しているわけでもない。

 

 10話を見ていて、気づいたけど、今どきはやはり、「冗談は顔だけにしてくれ」というのは禁句なのか。じゃあ、冗談はあごひげだけにしてくれ、とか、冗談は眼鏡だけにしてくれ、とかなら問題ないのだろうか。

 

 なんとなくわかる気がするというのは、金と権力に焦点化した作品はたくさんあるので、こういう作品がでてくるのをなんとなく期待感をもって見るという意味であった。

異論のメモ

 西山問題に際し、少々、異論あり。

 まず、この問題は非常にややこしい問題であるのに、よくまあ、ずけずけと言う人がいるもんだなと思った。そこまでに、この問題に関しては、ずけずけと言ってはいけないのではと個人的に思う。

 やや別の方向からそのことについて迫っていきたい。

 おそらく、ぼくとそう年齢は変わらない中年記者の間では西山太吉という人はヒーロー、あるいは、記者の鑑なのか?この事件に際し、ナベツネさんの行動は見事だったという左翼記者もいるようだ。敵ながらあっぱれ的な?

 なんだろう。『不当逮捕』という本があったはずだ。記者でもないぼくが指摘するのは野暮な気もするし、釈迦に説法になるのか。なるな。まあ、いいや、気にしない。

 ぼくが東大新人会が嫌いでこーゆー指摘をしているわけではない。ナベツネさんという人は実に多面的な要素があると言いたいだけ。しかも、彼の行動原理はいかにして権力闘争に勝つか?であるとおもうのだが…なんか、近頃のナベツネさん賛美はいかにも皮相的と感じる。

 東大新人会というものが苦手というのは、まあ、そう。共産党が苦手。

 魚住昭さんの本だったか?ナベツネさんは熱心なカントの読者で、哲学者志望であった気がする。まあ、いいや。近々、カントを読んでみよーか、と思っていたので。

 取材源の秘匿という観点から、西山太吉という人を見るとどーなるの?という。ぼくはメディアを尊敬するのはとてもやくざな商売と思えるから。立松という人は見事なメディア人として『不当逮捕』では描かれていた記憶がある。まあ、読んだのはだいぶ前なので、記憶はあやしい。が、脚色はあっても、取材源を秘匿したのだけは確かなことだろう。(取材源の秘匿を固守したとしても、当時の反応を知らないけど、ガセネタをつかまされたのはどーなんだろ?みたいなお話にはならなかったのか?)

 書いてみて思ったが、それほど異論ということでもないか。なんで、だれかのことをそんなに簡単に称賛してみたり、罵倒してみたりできるのか?そこらへんに関する疑問ということになるか。

 

 関係ないことを思い出した。

 吉本を「理系」と思うのは、「水準が違う」と「位相が違う」と表現を変えるような場合、きちんと「水準」と「位相」の違いを彼なりに見極めてつかいわけていそうなところ。(不?)純文系なぼくからすると、理系の人はこういうところにこだわりを見せるのだな、と思っていたのだけど、どーなんだろ。まあ、いいや。ぼくはそういうところはほどほどというか、ほぼ、考えない。

 

 あ、ぼくのほうがボンクラだったのかも。こういう問題(西山事件など)に、今だと、内部文書がどーのいったような話題に敏感な人たちは権力闘争の渦中にある人たちであるのかもだ。ぼくはそういうのを遠くから眺めもしない。

 

 

 

 

そういえば、PCについてはほぼ言及したことがない

 ポリティカルコレクトネスについて

 あまり関心がないから、というのはある。どうやら、ぼくが好んで見ているような美少女動物園ものアニメが批判されがちであるということは知っている。でも、批判が起きる場合、広告に使われるなど、なにかそれなりな理由があるらしいということくらいは知っている。「温泉むすめ」というのは自分の目で確かめて、ところどころまずい文言があると感じたが、『月曜日のたわわ』は見たことないのでスルーしたし、『咲』と『ストパン』の違い、宮永と宮藤の違いを知ったのは最近と言えば、最近のことである。たぶん、『咲』を見たら、今後、実際、見るかもだし、そうしたら、楽しく鑑賞すると思うが、ぼくはそこまで麻雀好きではない。点計算できる程度の関心。

 まあ、批判にはそれなりに説得力を感じる。作品の内容への批判だったら、ぼくの知っている作品でおかしいと思えば、反論する。

 PC視点からの批判よりも、美少女動物園ものに対する「偏見」なら、ゆるふわな世界観、登場人物に優しい世界で繰り広げられるハートウォーミングコメディみたいな理解のほうがぼくには迷惑に感じる。そんな単純に「ゆるふわ」と裁断はできんでしょうと思う。実際、けっこう複雑なお話がおおい。『ゆるキャン△』でもそう思う。「ゆるふわ」ということばがふさわしい作品もあるにはあるけど、思いつくのは『けいおん!』くらいか。で、これも、作品の核はそんなところにはない。いつの間にか終わる青春みたいなのが作品の核と思う。ゆるふわにボケーとしていうちに青春は終わっちゃいましたね!って感じ。大事なのは寂寥。

 ともかく、「美少女動物園」、「日常系」には変な誤解がはびこっていると感じる。PC視点からの批判よりも、この種の誤解のほうがぼくは嫌だ。まあ、「美少女動物園」とか、「日常系」とか、ぼくは蔑称として使っているつもりはないが、人によっては蔑称として使っているのが、文脈から、わかってしまうのがあるかもだ。「なろう系」という呼称も、同様。

 PC視点からの批判で気になったのは、『転スラ』の虐殺、『進撃の巨人』の「地ならし」、『スーパーカブ』の道交法違反のときかも。『スーパーカブ』が道交違反を指嗾しているといった指摘へは、確か、この日記にも反論を残していたと思うが。どうだったか?まあ、あらためて反論をしようとは思わないけど。『転スラ』や『進撃の巨人』についてはぼくはこれらの作品が好きなので、つまらないとは思わないし、ひどい描写であったとも思わないけど、こういうのが嫌いと言う人がいるのも仕方ないよね、とだけ思う。『アキバ冥途戦争』へもその種の批判はあったのだろうか。そこはちょっと確認できていないが、『アキバ冥途戦争』についていえば、ぼくは内容に不満があった。ひどい、人の命をなんだとおもっているんだというような感想ではない。むしろ、その種の荒唐無稽な?人の命を軽く扱うような露悪的な?描写の向こうにあまりも真面目な、真面目過ぎる人間観が透けて見えて、ゲップが出た。4話くらいで?5話か?脱落した。最後までふざけ倒していた『蜘蛛ですが、なにか?』と『陰の実力者になりくて!』のほうが、この点ではおもしろかったと思う。やや路線は異なるが、いや、まったく路線は異なるかもだが、『グラスリップ』なんかはまた別格におもしろく、感動した。

 脱線した。

 倫理というのが嫌いと言うのは、これはなんでそうなったかな?あんまし、憶えていないが、気づいたら、そうなっていた。吉本を読んで、多少は変わった気もするけど。しかし、吉本はできるだけ弱い倫理で戦えみたいなことを言っていた気がするが、気のせいか。吉本が論争で強かったのか?意見が分かれそうだが、少なくとも、彼はあまり勝つことにこだわりがなかったように見えるけど。負けて、当然と思っていたか?まではわからん。が、オウム事件慰安婦問題、「ならずもの国家異論」、原発問題、各種署名批判において彼はまったく勝てたようには見えないし、勝とうとしていたようにも見えない。個人の解釈、および、感想です。

 まあ、勝ちでも、負けでもいいけど、弱い倫理で鈍く、しぶとくいくというのは彼から学んだと思うが、実践はしていないかもだ。倫理というのが苦手なのだろう。

 

 今日のメモのまとめ

 アニメ作品、美少女動物園もの、日常系への偏見は無視する。作品の根幹への批判を期待する。PC視点からのものであっても、根幹への批判なら楽しんで読むし、反論すると思う。

 なので、『転スラ』、『進撃の巨人』への反論は今後、時間がある時、日記に残しておきたい。作品の核にかかわると思えるので。しかし、ぼくの反論は失敗に終わるだろう。どー考えても、批判者が正しい気がする。しかし、ぼくはエレンが好きなんだ。リムルも好きだし。

 

 ああ、関係ないことを思い出した。

 今やっているドラマ?病院が占拠されるドラマがひどいというおはなしを見た。ふざけてつくっているのか?みたいな。で、それが行き過ぎてウケているとも聞いたが、『グラスリップ』をそう見る人もいるのかもだが、たぶん、ちょっと違う。『グラスリップ』は見終わると作品にたしかな印象が感動とともに残る。見終わるとつまらないとは言えなくなる。たぶん、細かくセリフの分析とかやれば、ある種の整合性を見つけることが可能と思うのだが、そこまではめんどくてやっていない。

 まあ、そのドラマについては見ていないので何とも言えん。ただ、そういう視聴態度を逆手にとって、演出されたおふざけを基調にしたドラマが過去に(15年前くらい?)あるのだから、そのドラマが大まじめつくって、ド滑りして、ウケているのだとすると退化になるのでは?と。

 随分と日本のドラマを見ていないので、的外れなことを言っているのかも?

冬アニメ メモなど

 『シュガーアップル・フェアリーテイル

 とびとびで見ている。イケメンよりもお菓子を楽しんでいる。食べるのがもったいないと感じるようなお菓子にこれまで出会ったことがあったか。たぶん、あったとおもうけど、結局、食べている。この辺の事情は技術の進歩で変わっただろう。SNSにお菓子の写真をあげるなど。そうしたSNS現象にはとくにこれといった感慨も、感想もない。

 こいのぼり型のケーキもなんとなく食べるのにとまどった。そういえば、駅前の再開発でその店はなくなるのだろうか。聞いたところによるとだいぶ、様変わりするらしい。

 

 『転天』

 オチの予測は外れたようだ。いや、どうだろ。まあ、外れようが、当たろうが、どっちでもいい気がする。が、今更ではであるが、なぜこの作品は「転生もの」にしたのだろう。この辺の事情が今後、明らかにされるのか?と思いきや、もう8話とは…2期に期待したい。ってちょっと気が早すぎるか。

 

 そういえば、チャットロボットとまた、少しお話をした。

 アニメについて聞いた。感想を。実際には解説だった。テキストデータを読み込んで、頻出な単語を論理性を伴ってつなげ、表出しているという第一印象。で、いろいろ聞いたら、すこし、おもしろかったのが、音声データも取り込んでいるようだ。作品自体を鑑賞したのかは聞き忘れた。

 たぶん、作品も映像と合わせて、鑑賞したのかも?というのは、映像の比喩表現を理解できるか?と聞いたら、できると言っていた。比喩はテキストでも、映像でもパターン認識をしているようだった。

 ついでに、「抽象的な比喩」ということばの理解を問うたら、案の定、返答はあった。なんでも答えるというのは恐ろしいことだ。その内容については、こちらの頭に問題があり、理解が追い付かなかった?まあ、これも理解できようと、できまいと、どっちでもいい気がする。

 さらについでに、文学作品やアニメの嘘を識別できるか、を問うと、これまた、できると答えた。比喩同様に、膨大テキスト群を解析し、文脈からパターン抽出しているというようなことを言っていた。あれ?違ったかな。聞いたのが数日前だったので、忘れた。

 まあ、でも、人間と同じでは…

 皮肉を理解できるか、聞き忘れたが、たぶん、同じような返答が返ってくるのだろう。

 『小林さんちのメイドラゴン』と『ユーフォ』について聞いたわけだが、滝先生はAIの理解ではクソ教師ではないらしい。まあ、ぼくだって、完全にクソ教師とまでは言うつもりはないけど、AIのような理解にはならないな。しかし、AIがそういう理解もできるようになるのだろう。というか、聞き方を変えれば、今でも、答えが変わるのだろう。質問者側に答えを誘導する意志があれば…これこそ、滝先生問題。

 なんか脱線した。

 あ、ぼくはよくお話があっちこっちに拡散するので、AIにぼくの会話の流れが不自然か、否かを聞いたら、こちらの聞き方が悪かったのか。イミフな返答をされた。

 

 質問者側によってAIの返答をコントロールできそうなのが、どーも嫌だな。なんだろうな。この嫌な感じ。やっぱ、滝先生問題か。あ、滝先生の声優さんはぼくは好きだ。すごく滝先生の魅力をひきだしていると感じる。

 

 あと、なにを書こうと思ったのだったっか。

 

 じゃあ、今日、拝見したネタに関連して。皇室制度がこのままでは永続しないという議論があったとき、人工子宮への言及は確かになかったな…側室制度復活への言及は見た気がするのに。妙だな?と訝しんだりはしないが。皇室のタブー化もだけど、なんでかタブー化する問題というのはある。人工子宮については言及しづらいのはわかる気がしなくもない。側室制度も同様、言及しづらいというか、言及する必要性を感じない、と書くと、まるで、ぼくが密かに共和制を望んでいると誤解されそうだが、それは誤解ではなく、また、密かにでもなく、共和制が望ましいと思っているが、これを言っても相手にされないのは承知している。

 少子化問題はあまり関心もないので、スルーすることにした。スルーするー。するするとスルーするーみたいな。

 

 あ、『独矛超盾』の「クオリア」に関する議論について、書こうと思っていたのだった。しかし、これを思いついたのは3日前くらい内容はなんであったか。メモはたぶん、捨ててしまった。なんか見つからないし。まあ、いいや。

 大森壮蔵を読んだとき、ぼくは即、「クオリア」というものはないと言えると思ったのだけど、『独矛超盾』の議論では、本全体を貫く論旨との関係から「クオリア」の位置づけを規定し、論述していた。そんなものはなーいと言い切ってしまうより、こういった論述のほうがおもしろいと思ったのだ。なんといえばいいのか。相手の主張を高めるというのは自分の主張にもいいことなんじゃね?と。

 前は相手の主張の鉄壁な部分にあえて突っ込むのがいいと思っていたけど、どうも、それより以前に相手の主張の強度をあらかじめ高める作業をしておくと、もっと面白くなるでは…と。超鉄壁にして、こっちが砕け散るみたいな。

 メモしておこうと思ったのはこれだけだったか?

 

 まあ、ただ、ぼくは「クオリア」についてはあるのか、ないのか?そもそも、そのどちらにも関心がわかないので、終章の議論に集中しようと思う。記憶の問題。でも、やっぱ関係はするのか。ぼくは私秘性へのこだわりがあったのだし。

 

 チャットAI

 使用者が対話を志向するのか、使役を目的にするか?で変わるだけか。