倫理的な批判には興味をもてないけど
「老人集団自決」が比喩であっても、なくても、微妙な表現ということには変わりないのでは?どう微妙なのか?どちらにせよ、そのことばは現実に追い付いていない。成田さんにいわれまでもなく、老人は引退するし、自殺も「している」。「している」をわざと強調したのは、成田さんに対する批判ではない。むしろ、成田さんを倫理的に批判している人たちに対する批判だ。しかし、この反・成田さん批判は倫理的な含みをもってしまうので、控えてきた。成田さんのことばは乱暴であったが、一応、現実の一端を捉えようとはしている風に見える。一方、彼に対する批判は、こうしている今も自殺しているであろう老人についてはなにも語りえない。そういう存在はやんわり無視しているということか?であるなら、そういう無視も、またよろしいというべきであるかもだ。
とりあえず、中二病なので、この種の倫理的批判が幅を利かせている場合においては、世界は敵である、と仮定して、四方八方にケンカを売るスタイルを心がけています。
みたいなことを早起きして日記に残しておこうとおもったわけではなかった。
比喩であるとしつこく主張する人々がいるようなので、そういう人たちに反論?ということになるのか、どうか。すくなくとも、この日記は頭の精度が低い人向けの啓蒙を目的にしているわけではないので、やっぱ、反論ということになるか?まあ、ぼくも頭の精度は低く、永井さんの新刊の終章をよむのに三日というか、今日もこれから30分くらい読むので四日以上、かかっている…が、細かいこと気にせず、というか、自分のことは棚に上げてお話をすすめよう。
比喩について
これは修辞である以上、そこに巧拙はある。
紅葉が地面いっぱいに敷き詰められた光景を見て、「赤い絨毯」とか、銀杏が以下同文、「黄色い絨毯」とか、表現したとするとヘタクソということになる。低級めたふぉりすと(低級比喩師)がやりがちな比喩表現ということになりましょうか。
それでも、一応、ことばを使って、なにごとかを表現しようという意志はそこに見られる。
では、比喩としての「老人集団自決」はどうであろうか?
「過度の飲酒」を「緩慢なる自殺」と表現する場合との対比で考えてみると、どうなるか?
ああ、けっこう勘違いなさっている人がいるが、「老人集団自決」を比喩と規定しても、<死>、とりわけ「自死」の含みが消えるわけではない。
あ、それで思い出したけど、「抽象的な比喩」と言っている人はこのご自分の発言、「抽象的な比喩」をどういうものとして理解なさっているのか?そこをご説明を、と。ぼくの足りない頭ではかなり理解不能なことばになっている。ジワジワきてます。しかし、それとて、「ナッジが効きすぎた」のジワジワ度には遠く及びません。
脱線した。が、抽象的な比喩ねえ?具体的な比喩というものも、そういう人たちの中ではなにか、明確なイメージがあるのかねえ?という疑問。まあ、自分でもよくわかっていないことばを使ってしまうことはぼくにもあるので、そういう物言いをしてしまうこと自体は気にならないけど、言い訳や擁護がまずはじめに在って、後から付いてきた理屈的なものであるなら下らねーって思いますね。
元のお話に強引に戻ろう。
比喩としての「老人集団自決」は①安楽死、②社会的引退の二様に解釈可能となると思う。①安楽死となるのは自殺だと比喩にならないので、安楽死ならかろうじて比喩になりうる。
①、②で「自決」の部分に関しては解釈可能になったとして、「集団」はどう解釈すればいいのか?あるいは、「老人」もどう解釈すればいいのか。
「集団」も、「老人」も、比喩であるのか?
まあ、なんだ比喩であると主張する人たちはこういうところをちゃんと自分で理解を詰めてくれ、と思う。これは成田さん自身がどう説明しているとは無関係に当為として。それくらいやっても、罰は当たらん。ぼくは君らの解釈が聞きたい、という感じです。
仮に、「老人集団自決」が老人が集団で社会的に引退する、の意であるなら、低級メタファーすぎやしませんか?とは思う。過激なだけで、比喩としては上等じゃない。あ、大衆を動員するための修辞なの?しかし、皆様におかれましては、「活動家嫌い」設定だったのでは?と思わんでもない。
しかしなあ。比喩という主張はそもそも無理があると思う。三島由紀夫に言及しているのでしょう?これは宮台さんなどにも言えるが、なぜ三島に言及するのか。
どうぞご自由に言及なさってください、とも思うし、三島は。ぼくはあまり好きではないけど、魅力的な「作家」であることはわかる気がする。
三島のあまり集団的ではない自決をどう解釈しているのか?これは宮台さんではなく、成田さんに関する疑問だ。
三島と埴谷の論争があった。三島は役者のやる切腹を偽物と評した。本物の前では偽物、演技は霞むという主旨だろう。(この論争においては、「口舌の徒」埴谷雄高を、ぼくは支持する。)
比喩とは何か?ある物事をことばの表現として別の物事に置き換えることだ。
三島は当人にとって重要なことを別のものには置き換えない派なのでは?
なんというか、「老人集団自決」は比喩です、という場合、これは非常に反三島的言明ということになりはしまいか?ひとさまのことばとはいえ、この点、わたし、とても気になります!
しかし、そう単純には言えない。
ぼくはけっこう、加藤典洋さん的三島解釈が好きだ。
『仮面の告白』執筆以降、「作家三島由紀夫」が誕生したという見立て。あの時、平岡公威から三島由紀夫になった、という解釈。別の人物に置き換わっている、ということになる。作家三島由紀夫の仮構性。
では、自決したのはどちらか?という疑問も当然、加藤解釈をとると付随してくる。
時間的に朝の合間をぬって日記に書けるようなものではなかったかもだ。
しかし、やっぱ、ぼくは三島を好きにはなれない。結局、自決をどう解釈するかかが彼の作品をどう解釈するかまで影響を及ぼす。そういう構造を彼は自らつくりだした。
大江健三郎のほうが作家としては好きだな。いや、そうでもないか。大江の場合、護憲派運動や『沖縄ノート』がある。これらを作品解釈と切り離すか、どうか。あんまり、考えたこともなかった。これも、急ごしらえで論を展開できるようなものではなかったな。
ぼくはやっぱ軽率でバカなのだ。残しておこう。
思っていた通り話は脱線で終わった。
『陰の実力者になりたくて!』は2期を見たい。それまでに原作は読んでおきたい。
やや驚愕の事実
成田悠輔さんは経済学者だったんですね!柄谷さんの名前を見かけたので、勝手に文学者だと思ってました。