忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

冬アニメ メモ、前回の補足など

 『時光代理人-LINK CLICK-』

 3・4・5話はとてもよくできていると思う。

 以下、感想をメモ書き。

 国民の記憶の位置づけ。歴史的な出来事をどう理解するか?ぼくがそこに口をはさむのはちょっとずるいかもしれないけれど、本作はその役割を引き受けているのか?今後の展開に3・4・5話で語られたことが生きてくるといいなとは思う。

 なぜずるいのかといえば、日本にも過去の出来事が宙に浮いたままほったらかしていることがあると思えるので…コロナ禍もあと10年たったら、あれはなんだったのかと問い直される時がくるのだろうか?

 

 感傷的な描写に全振りしている。1話からずっと人が感動するポイントを的確につかんで、表現しているともいえる。この点がやや不満。

 

 時の内面はくどいくらいに描かれているが、対する光はほぼ描かれない。この対比は今後も続くのか?

 

 人間とは記憶を蓄積していく生き物であると考えてみると、どこかの時点で人は記憶の再構成を行う。本作では再構成する際の大事なポイントを未来の行方を左右する分岐点には置いていない。では、どこに大事なポイントはあるのか?なんらかの違和感を伴った記憶と本作の作者は考えているのではなかろうか。非常に納得がいく。自分でも理解できない違和感のある言動が再構成する際にはより重要な位置を占めるのではないか、と最近、ぼくも感じていて、その記憶の発生時点といわゆる人生の分岐点にはズレがあると思えるからだ。なんであんなことを誰それにいってしまったんだろうというような経験はだれにでもあるとはおおもうが、そこが分岐点であったかはあやしい、こういう感覚だ。そして、本作ではその描写もうまい。その違和感は人間が咄嗟にとってしまう不可解な行動に由来し、その様子を作中では他者に人格を奪われた状態、主人公、時が依頼人に憑依した状態として描かれているのだ。作者の着想にはただただ驚く。

 

 中国と日本

 この作品を見ては日本人は何を思うのだろう。すこし嫌味をいうと表現の自由のない国の作品はつまらないという話をたまにネットで見かけるが、その見方はやはりあまりにも浅薄ではないか?

 最近、石原慎太郎三島由紀夫の対談を読んだ。感想としては、ある意味、三島はまともだ。ぼくは共和制が望ましいと思うが、現在、日本で共産主義が権力を握れば、国民との軋轢を避けるため、天皇制以外の様々な価値観を認めるだろう、という三島の見立ては正しいと思う。まあ、その天皇制にぼくは違和感はあるが…そこが今、書き留めておきたい論点ではない。

 香港における中国共産党による言論弾圧に際し、疑問に思っていたことがある。香港以外の中国人は香港の喧騒をどうのように見ていたかについて。香港に同情的な人はどのくらいいたのだろうか。あるいは、なぜ香港にそれほど同情を寄せないのだろうか?ぼくは熱心な中国ウォッチャーではないので、勘違いしているだけか。

 表現の自由が制限された中国で制作されたこのアニメはおもしろくないのか?ぼくはおもしろいと思えるので、なぜか暗い気持ちになる。この点についてはまた考えよう。

 

 全然、関係ないことを思い出した。

 東京五輪に反対していた人はなぜ北京五輪に反対しないのか?みたいな話をしている人はおかしい。ぼくはどっちにも反対しているぞ。ただ、民間事業者が開催/中止を判断してやればいいと思っているだけだ。それも、しょせん民間のやることと考えているのではなく、民間の判断は最大限尊重されるべきものと思っているのだ。(それにくわえ、ぼくは五輪を特別視しないので、強く反対しようとは考えない。)

 なぜ東京五輪に反対していた人の中に北京五輪に反対する人がいないと思い込めるのか、不思議だ。

 もうひとつ思い出した。左のキャンセルカルチャーを擁護する人は右のキャンセルカルチャーも擁護せよというご意見はその通りとは思うが、これまた、左は左の、右は右の、どっちかのキャンセルカルチャーしか擁護しないと考える人がいるのか?これも、わからん。ネットにはいないのかもしれないが、左右両方のキャンセルカルチャーを支持する人はいると思うぞ。左右対立を重視する人ばかりではないのだ。

 勝手にひとさまのことを透明人間化して、見えないことにすることへ違和感がある。

 なお、ぼくのこの日記は基本的に自分用の備忘録として残しているだけなので、見えないことにして無視してもらってかまいません。

 

 前回の補足

 余計なことを書いているうちになにを書こうと思っていたか、忘れた。

 まあ、いいや。

 生活の中に遍在する権力性への過剰反応かもしれないけれど、ぼくは気になる。考えているとだんだん不快になってくるので、すぐ別のことを始めてしまうけれど。

 たしかに言われてみると「戦後」感覚がのこっているのは村上春樹くらいまでなのだろうか。と言い切れるほど、最近の小説は読んでいない…

 それにぼく自身に「戦後」感覚はないかもだ。ただ、この度のコロナ禍では欧米のすごさを見せつけられたような気がする。イギリスの政治家についてはブレアもすごいと思ったけれど、ジョンソンさんもすごいな…日本のコロナ対策は他の先進国に比して、うまくいっているのにどうしてそんな感じがしないのだろう。ぼくの中で理解と感覚にズレがあるのだ。

 明治~戦中派の劣等感を遠目に見て、よーわからんとかおもっていたけど、なんか失礼な態度だったのかも。反省はしない。

 風呂入って、寝る。

 明日は雪なのか。

 

 ※ブレアはなにで見たのだろう?リアルタイムの記憶か。イラク戦争への支持の演説だったと思う。

 

 思い出した。とても大事なことだった。

 教師が生徒に向かって目つむって賛成/反対の意を示せと迫ったと書いたが、そこで生まれる権力についての補足。

 ただひとり目開けていていることですべてを知りうる立場にいた教師、そこへ権力が集中したと言いたいわけではない。生徒も教師の求めに応じることで、共犯関係を築き、その場で権力が動き始めたと見るべきだろう。というか、教師と生徒による呼応を望ましいものとして互いに自発的にやってしまうところに怖ろしさがある。信頼関係みたいな美談で糊塗されたりするのだから、どーしたもんかと…

 滝先生はやっぱすごいよ。