成長について
変な文章について
成長と分配のお話ではなく、今日、日記に残しておきたいのは成長と愛について。
今日も金曜ロードショーでは『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』をやっていたらしいので、それに関連する問題
とりあえず、以下にふたつの変な文章を記す。
・人は愛を知り、成長する。
・人は成長して、愛を知る。
この文章を『エヴァガ』の感想用に寄せると
・ヴァイオレットは手紙を書くことを通して、愛がなんであるかを知り、成長した。
・ヴァイオレットは手紙を書くことを通して、人の感情について学び、成長した結果、愛を知った。
文章の巧拙はひとまず置くとして、これらの文章は変だ。
間違ったことが書いてあると主張したいわけではない。
愛と成長を関連付けて語ることの妥当性の問題か、と思う。
なんのひねりもないわけだが、愛を知ることは、すなわち、成長を意味するのか?成長した結果、愛を知ったということは、それまで愛を知らなかったのか?後者はヴァイオレットならありうるか。ただし、一般論として、成長の結果、恋愛が成就したというニュアンスを含む場合はやはり変な感じがする。恋愛が成果物のように見えるからか。
ということでなんのオチもない。成長と愛を無暗に結び付けて考えるのにぼくは慎重でありたい、と成長期を過ぎてから思うのである。
というか、「成長」という二文字は人間を物語るときに、あるいは、物語を読み、感想を語るときに安易に持ち出される要注意ワードということかもしれない。なんとく「成長」といえば、わかったような気になれる。
とか、偉そうに書いているが、実はぼくなんかも、安直な書き方をよくしている。たしか、先週、『エヴァガ』について、「手紙を書くことを通して、人のこころを知り」みたいな書き方をしたはずだ。が、この書き方も変といえば、変だ。こころを知るとか安易に書いている。