ごく個人的な…
社会が構造的に生み出す理不尽にはそれほどの興味がわかない。ところが、個人のこころにあらわれる理不尽はなぜかくも面白いのか?
以前、そのように大雑把に捉えていたけれど、もうすこし踏み込めそうだ。
『やがて君になる』の小説のメモ書きをしながら、考えたことだった。
主人公の佐伯沙弥香は14歳で同じ女子校に通うひとつ上の柚木先輩との初恋を経験する。彼女は相手に好かれようと自分を偽り、そのことに後ろめたさをおぼえる。この場合、恋愛関係から生み出された理不尽とはかつてとは異なる自分であり、それが個人のこころの問題に転化されると偽りの自分になった。そんな見方はできないだろうか、と昨日思った。
以前はざっくりと社会/個人と図式的に見て、個人に重きを置いていたのだけれど、ぼくが本当に関心を持っていたのはそこではなかったのかもしれない。個人のこころの問題に転化したときにおこる質の変化に関心があったのだと思う。このことに気づいてなにになると問われれば、なににもならないし、おそらく生活に役立つこともない。でも、面白いのだから仕方ない。
質の変化、と書いたのはごまかしで、適当なことばが思いつかない。今のところはこの辺でこの話はおしまい。小説の内容に集中できなくなる。
偽り、後ろめたさということばに帰着するあたりはなにゆえか?時代性、作家性、作品性?一般的にはマイナス要素とされるようなところに目がいってしまうのはぼくのせい。
あと、昨日書き忘れたこと。柚木先輩の内面も見てみたい。「遊び」ということばに込めた思いを知りたい。