忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

気になっていたこと

 『蒼穹のファフナー』について分からないことやだれかの感想を読んでみたいということもあり、ネットをあさっていて、意外なものに出会った。それは2期に対して意外と厳しい評価をするひとが多いことだ。ぼくはまだ1期をみていないので、比較とかはできないが、2期から見始めた感想でいえば、ちょっと厳しすぎるのでは?という気がしないでもない。それでますます1期を見なければいけないと思っている。

 それでも少しに気になって、1期の羽佐間翔子の死については調べてしまった。なるほど、羽佐間カノンとは随分と異なる描き方をされているのだなとは思った。ただ、この違いはやはり同化現象による消滅とぼくたちが通常考える死の違いのようにも思える。

 そこまで断言できるほどの自信はないが、このことに関連して言えることは、フェストゥムとの戦いと人類軍との戦いの違いとしてあらわれているようにも見える。人類軍との戦いは「戦争」に見えるが、フェストゥムとの戦いは「戦争」には見えない。見えないというのは正確ではないかもしれない。戦後世代が戦争を描くとこういうものになるのか?これはエヴァにおける使徒との戦いを含めての話になるが、どうなのだろう。

 それと戦争について描かれる作品については思うことがもうひとつある。その作品の中で戦争の悲惨さや残酷さがうまく描かれれば、描かれるほどに戦争の魅力が増すという逆説。これはぼくの感覚なので一般化できるものではない。それは分かっている。自分も変な話とは思いつつも、そんな作品を見ていると戦争にある種の魅力を感じてしまうのだ。こういうことを書いていると近頃は「現実と創作の区別がつかないアブナイやつ」みたいな見方をされるのだろうか?そんな見方をされたところで困るということもないし、反論するのも面倒なので放っておこう。

 話はずいぶんと逸れてしまったが、ファフナーという作品の魅力は実は1期のファンの中に強烈なアンチを生み出した点にもあるのではないのかということを書いておこうと思っていたのだった。アンチというのも違うか。

 この類推は『進撃の巨人』から得たものだ。『進撃の巨人』関連の記事などをネットであさっていると実に厳しい反応にこれまた出くわす。これはある意味、当然で、進撃の作者は自ら難しい問題に踏み込んでいっているので、どうしてそこまでやるのかという疑問を抱く読者は出てくるだろう。そんな読者が海を見たところで終わればよかったという感想を言うのも、勿論そのひとの自由には違いない。だが、数ある否定的な意見の中でも、作者が自分の手に負えない、扱えないような難問に手を出したのがいけなかったという意見にはまったく同意できない。ぼくはむしろそこについての見方は逆だ。難問に進む姿勢を尊敬する。そして難問であればこそ、みんなが読んで納得のいく落としどころなんかにはならないだろうと思う。そんな落としどころが簡単に見つかってたまるものか、という思い。

 どうもこういう部分が『蒼穹のファフナー』にもあるのではないかという1期を見ていないぼくの予測。

 それと1期でも人類軍との戦いがあるのかが気になった。多分あるんだろう。

 その人類軍について思ったこと。人類軍のフェストゥムに対する認識は「穢れ」なのだろう。その「穢れ」との共存を目指す竜宮島は排除の対象という感じ。コロナ禍だから、そういうことをぼくが連想してしまったということはあるのかもしれない。