それでも自意識は語りだす
なんか『俺ガイル』のアニメのタイトルっぽい感じにしてみた。
ああ おまへはなにをしてきたのだと
吹き来る風が私に云ふ
有名な詩のこの部分
これは自意識の語りだったのだろうかと帰り道で思った。
なぜこんなことを思ったのか。「軟弱だぞ、安達」のせいである。
『安達としまむら』がやっぱり面白い。
独白というのか、自意識の語りというのか、そういうたぐいのもの。
島村は「酔えない」のかもしれない、そんなことを思いつつ、見ている。雪ノ下陽乃の言った「君は酔えない」にいまだにひっつかかっているということだろう。漱石の「人の世は住みにくい」というひと言につきるのかもしれない。それでも、これからも、この問題をめぐる多くの作品における様々な表現をぼくは何度でも楽しんでいくのだろうと思うと泣けてくる。
しかし、まだ3話なので島村が「酔えない」ひとという結論は先走りすぎか。
それとETだよね、あれは。ETってどんな話だったか、もう覚えていない。
出てくる宇宙人とは無関係だろう。自転車に乗っているのは安達と島村だし。
この『安達としまむら』の他には今期は『神様になった日』と『蒼穹のファフナー』再放送は見ていこうと思う。『魔女の旅々』(この文字列予測変換に出てこない)はどうしようか。『俺ガイル』が終わったら、あまり見ることもなくなるとぼやいていた割にはなんだかんだアニメを見ている。
『神様になった日』は『エンジェルビーツ』、『シャーロット』と原作者が同じらしいが、『エンジェルビーツ』は強烈な印象が残っている。当時のオタク少年(自称)に勧められて見たのだった。ただ、途中で何度も視聴を挫折しかけた。『灰羽連盟』に似ているという評をネットで見たが、ぼくにはあまりそのようには思えなかった。
それで思ったのだが、ぼくもそろそろオタクを自称できるようになったか、どうか。くだんのオタク少年に偶然街で出くわしたとき、ぼくもオタクと自己紹介できるか。それとも、当時すでにぼくはオタクと傍からは見えていたのか。オタクがなにであるかをわからぬままに話を進めているのだが、人生とは悲しいもので、そのオタク少年がオタクである自覚を失っている可能性がある。ぼくの中高の同級生だった映画好きだった彼は大学生の時にすでに映画を見なくなっていた。そして、今ではぼくもあまり映画を見ない。