忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

元からというつっこみは想定せず、気持ち悪い奴になる

 この間、本屋に行って、お目当ての脇にあった『ヒューマニズム考』(渡辺一夫講談社文芸文庫)をついでというのもあれだが、購入し、就寝前に導入剤がわりに少しずつ読み進めていたのだが、思いの外おもしろく、かえって眠れなくなり、睡眠時間を返してくれとなどと思っていたが、妙な読後感が残った。今日はそれをメモしていきたい。

 

 ちょっと真面目にこの本の要旨をまとめてみる。「それは人間であることとなんの関係があるのか。」、この問いを自分に、あるいは他者に発し続けるひとをユマニストというのだろう。では、その人間とは何であるのか?そこが問わることになるか?というと、おそらくそんな話ではない。本書では「ユマニスムは、別に体系をもった思想というようなぎょうぎょうしいものではけっしてなく、ごく平凡な人間らしい心がまえ」(『ヒューマニズム考』p.198)とのべられているようにぼんやりとした人間観で差し支えないとぼくは受け取った。平易な文章であることに加え、おおげさな問題にせず、ぼんやりとした姿勢で構わない感じはぼくの趣味には合う。でも、よくわからない感じが付きまとう。

 

 この本の要約を残すことが本旨ではないため、そこはかなり雑に記すが、群盲象をなでる、田毎の月の話から始まり、エラスムスとルターの対比、ラブレーカルヴァンの対比、カステリヨン、モンテーニュの紹介を通して、フランス文学の中でユマニスムがどのようにあらわれてきたのかについて語られる。

 ルターとカルヴァンはユマニストとして出発しながら、そこから離れざるをえなかった様子が描かる。一方、エラスムスラブレー、カステリヨン、モンテーニュといったユマニストであり続けた人々がそれゆえにイデオロギー闘争の両陣営から挟み撃ちにあう様子が描かれ、彼らは常に負ける運命にあったとされる。テキトーに要約してみた。

 ぼくがこの本を読んでいてまいってしまったのは「笑い」についての部分だ。ぼくはたぶん笑いのセンスがあまりない。何度か、この日記にも書いたが、森元首相がもたらす笑いとか気持ち悪い。ホモソなノリな権力に迎合することによって生まれる笑いが苦手なのだ。『人志松本のすべらない話』を2度くらい?見たことがあるが、この番組で生まれる笑いも同じ構造である。それを楽屋ではなく、人目に触れる番組でやるのだから森元首相の話よりも気持ち悪いが、他に違いがあるとすれば、しゃべりの質にあるのかもしれない。生憎ぼくにはそれをはかる定規がない。そもそもどちらも笑えるほどの可笑しさがあるようにも感じないので、考えてみようとも思えない。ただ、こういうのを見て笑うひともいるのだろう。そのことはなんとなくではあるが、わかる。で、問題はそこにある。ラブレーの作品から生まれた笑いも同質のもではなかったのか?これまた、なんとなくではあるが、同質な気がする。お下品な話はしかたないのか。本当にそうだろうか?

 ぼくもたまにお下品な話を日記に書くことはある。しかし、お下品ざますなことを書いている自覚はあまりないし、そこから他者の共感やら、笑いを引き出そうとは思っていない。まあ、どちらにしろそこまでひとさまのことは言えないわけだ。また、ツイッターでお下品な話題を目にしても、気にならないこともある。雑な印象論になるが、やはり気持ち悪くないものにはそうならないだけの要因があり、それは権力化につながらないところにあるではないか?そう見るなら、ラブレーの笑いは少し性質が違うかも。彼は結局はみじめに負けるのだから。みじめに負ける権力もありうるか?いや、勝ち負け以前の問題かもしれない。そもそもラブレーには笑い以外の手段があったのだろうか?なにもかも失った人間に最後に残された手段が笑いだとしたら?ガチの茶番ってものはありうるのだと思う。ところで渡辺一夫は笑いをどう考えていたのか?そこがちょっとどころではないくらいに分からない。ラブレーを読んでみるか…

 まあ、そこに引っかかりながら、田毎の月の話に倣って、笑い以外のところでユマニスムに接近してみようと、先を読み進めると、モンテーニュが出てきた。面白い人だった。ただ、彼にしてもみじめに負けるのか。やはり世の中というのはよい意味で狂っているのだと思う。負けを知りながら、ユマニストになるのだろう。変なひとだ。こんな雑な言い方はよろしくない。負ける予感がありながらも、ユマニストであり続けようというひとが世の中には出てきてしまうのだろう。これはこれで気持ち悪い。あれ?世の中ってもしかして気持ち悪いやつらだらけなの?震えてきた。興奮で。こうした見方が許されるのなら、ユマニスムが対峙しているのは人間にまつわる根本的な問題なのだろうという気がしてくる。様々な時代にそれは具体的な様相をともなって、あるときは宗教問題、またあるときは…という具合に。負けても負けても、懲りずに挑戦するひとが出てくるのは狂っているし、気持ち悪いし、面白い。

 それはそれとして、森さんのように社会的に偉い人はつまらない冗談で社会に話題を提供するのは止めてほしいし、『人志松本のすべらない話』みたいなものとは別種の気持ち悪さを追求した番組に期待したい。世の中はもっと面白くて気持ち悪いものに満ち溢れているはずだ。

 あー今日もまた気持ち悪い文章を書いてしまった。楽しい。

 いや、逆だ。今日の文章はあまり気持ち悪くない。そこが駄目だ。もっと気持ち悪さを!まあ、でも、楽しいのは楽しい。

発情したその先を、その他

 発情したその先が気になる

 『やがて君になる 佐伯沙弥香について』のラストは発情したところで終わる。その先が描かれなかったところは少し残念。下世話な野次馬根性的な視線からだけでなく、佐伯沙弥香だからこそ、その先を見てみたい。いや、本音を言えば、ぼくの関心はほぼ後者。自分を偽る彼女はどうなるのか?そこには関心がある。もしかしたら、そこでその悩みは終わりを迎えるのかもしれない?それとも、もっと拗らせるのか?

 

 入間さんの作品『安達としまむら』ではそこが描かれたと聞く。確か、DVDの特典小説?安達の死後の島村にも関心はあるけれど、こちらにも関心はある。そこでも、安達さんは例の口調で「ううん、あんまり楽しくない」とかいってしまうのだろうか?さすがにそれはないか…しかし、そんなことも少し期待しちゃうぞ。一方、島村はどうなのか?そのひとの在り方への関心みたいなものは捨てがたいものがある。

 

 『やがて君になる』原作漫画と小説の比較をするなら

 いや、そもそも比較する必要はないかも。

 ただ、小糸侑と枝元陽、このふたりについて考えてみるのは面白いかもしれない。ふたりとも、自分を偽らないタイプ。作者の違いがあらわれた部分だと思うので。だれかやってくれないだろうか。

 

 日本アニメの表現について

 物語の面白さみたいなものに日本の独自性ってあるのだろうか?

 適当なことばは思い浮かばないが、ぼくの好きな作品の多くに共通するのが「なにかが欠落している感じ」で、それがその作品の空気感になっている。ジャンルとかにはあまり関係がなく、それがある気がする。で、その要因を時代や現代社会に求めるのはどうも違うだろう。ある特定の時代、ある社会だからこそ生まれた作品みたいな見方をあまりしたくない、という意味。例外は『進撃の巨人』?『裏世界ピクニック』は2ちゃんなしには存在しなかったと言えるのかもしれないが、その作品の本質と2ちゃんが無関係なのもまた事実。不思議な作品だな。ぼくは怪談自体も好き。

 

 その空気感みたいなものに関係があるのか、そこははっきりしないが、表現の豊かさみたいなものも共通してある。でも、そのアニメ表現の豊かさって日本アニメの伝統みたいなところもあるのだろうか?ぼくのこどもころのものと比べてみても、今のほうが微細な感じはするのだけれど、どうなのだろう。行き過ぎて、くどい時もあるが…ただ、過剰なコントロールに見えても、今は実写のものよりもその過剰さゆえに好きなっているところあり。なんでだろう。技術としての写真が生まれても、絵が廃れなかったのと同じこと?よくわからん。というか、写真登場以降の絵画がどう変わったのかをそもそも知らない。

 

 

メモというか感想というか途中から感想っぽくなったので感想

 七海燈子と佐伯沙弥香の「偽りの自分」について

 昨日の時点では別のものとしていたけれど、どちらも独り相撲と見てみるとして、考えを進めてみよう。

 

 七海燈子の場合

 理想の自分とは姉そのものになること。で、それは本来の自分と彼女が考えているものはおそらく別。恋愛のために自分を偽っているわけではない。

 そんな燈子に対する疑問。本来の自分というものが一般的にありうるものだとして、それに類するものが燈子にあるのか?また、さらに別のふたつの疑問が生まれる。ひとつめは彼女が考える本来の自分は忘却の彼方ではないのか?もうひとつは、彼女が姉を演じたところも含めて、それを自分と見ることはできないのか?原作をもう一度見ないと忘れてしまった。原作を要参照であれば、小説版の感想からは七海燈子については省いて、書こう。

 

 佐伯沙弥香の場合

 沙弥香の場合は理想の自分についてはよく分からない、というのはこれといってこの小説内で言及されていない気がする。彼女の中ではっきりしていることは恋愛において相手に好かれるために嘘をついてしまうこと。柚木先輩にすすめられたミステリー小説を読み、それほど面白くなかったのに面白かったと言ってしまう。正直な感想を述べて、嫌われるのを恐れた。この挿話などは非常に共感される部分にもなろう。恋愛あるあるといっていいかもしれない。沙弥香の場合は好きでもないミステリー小説が並ぶ本棚にその変化を見てとれるが、ほかのだれかを想像してみて、相手の好みにあわせ服装、化粧、髪型をかえる、あり得そうなことである。

 ではなぜぼくがそれでも「恋愛あるある」とは思わないのか?彼女が自身が同性愛者に「なった」ことを偽りとは思ってないのが不思議だった、そのことによる。詳述はしないが、そのきっかけが突発的な事故ともいえるようなもので、沙弥香の同性愛への確信は余計に不思議に見える。彼女の内面は共感を得やすい部分のその先をちょっとほじくり返してみると容易にわかり難い部分にぶつかるように描かれているのだ。そして、彼女は自身が同性愛者である自己規定には疑いをはさまない。そこに美しいものの影をぼくは見る。

 また、はじめにふれた相手に好かれるために嘘をつくという問題も単に共感を得やすいというだけであって、解決が容易なわけもない。完結する3巻のおしまいまで彼女が今後、恋愛において自分を偽ることを止めるとは言い切っていないのだ。ただ、そのことに後ろめたさを感じるのは止め、前向きにとらえている様子はある。

 また、小説の中からこの「偽りの自分」問題を取り出し、日常に置いてみると非常に面倒なことになるひともいるのではないか?『俺ガイル』の「君は酔えない」問題も含めて、個人的な印象に過ぎないが、こういうのを中二病というのではないだろうか?埴谷雄高の「自同律の不快」も。そして、ぼく自身を振り返ってみても、このようなことに思い当たる節があるにはあるが、今、大きな悩みとなって、苦しんいるわけでもなく、なぜかそれなりに楽しく生きているのだから不思議。バカだから生きてこられたというのが本当だとして、なお不思議な感じは消えない。だから、沙弥香は小説で最後あんな感じなのかなと一応の納得はした。彼女は発情していた。

 

 構成について

 入間さんの『安達としまむら』の7巻、9巻でも感じた。よく考えられた構成になっている。

 ぼくの読みについてはこのへんは甘いところがあり、気づかずに読み終えてしまった部分もあるだろう。以下、気づいたことを

 

 沙弥香の祖母について

 祖母との挿話には必然性があった。正直、ぼくははじめこの挿話は退屈だと思った。よくある「年の功」の描写。人生を分かったふうな大人が出てくる。前ほど嫌いではなくなったが…沙弥香の祖母は孫が気づいていなさそうなことまで言い当てる勘のいいばーさまとして出てくる。そして、読み終わってみると沙弥香にもその側面があったのだと分かるように描かれているのだ。勘のいい沙弥香なのだ。小糸侑が七海燈子のひとり暮らしのアパートに「お泊り」にいったことを見破る。

 ただ、ぼくはこの「勘のいい」についてはことば通りには受け取らなかった。特に根拠はない。また、自分がそういうものを嫌いだからではない。ただ、なんとなくそう思ったに過ぎない。で、どう解釈したのか?適当なことをいったらあたったと考えている。祖母のことばが沙弥香にささるのはこのふたりが似ているからだろうと。このふたりが似ているというのは意外とこの小説で大事な気がする。きっと、そうなのだ。祖母も同性愛者だったが、名家ゆえか、それを隠して生きてきたのではないか?

 祖母も自分を偽り続けたひとだったのだ。沙弥香も自分を偽っているが、祖母との違いは明白で、同性愛者であることを隠してはいない。この小説が美しいのだとすれば、この点以外にはない。そして、祖母を思えば、美しくも悲しいお話なのである。(ただし、この読みは非推奨ではあります。)

 

 構成としてはもうひとつある。

 小学生、中学生、高校生、大学生と順に描かれるが、大学生時の話は小学生時の話に重なるように描かれるのだ。

 ただ、ぼくにはこの凝らされた技巧を読み取ることはできなかった。そこにはどんな意味があったのだろう?

 

 原作要参照だが、もうひとつあった。

 燈子とのじゃんけんが2回描かれていた。

 1度目は生徒会室で、2度目は喫茶店で。

 燈子にとってじゃんけんが何を意味するのか、そこがわからないと分かりづらいとおもうが、小説だけ読んでも

 1度目は悲劇として、2度目は喜劇として(皮肉になっていないというつっこみはいらないです。皮肉を書いたつもりはないのですから。)

 ということは分かる。

 これは冗談にしても、1度目のじゃんけんで沙弥香は燈子との間に見えない壁があったことに気づき、2度目ではそれを感じなかったことだけは分かる。

 

 このほかにあるのかもしれないけれど、ぼくが気づいたのはここまで。

 

 うーん、これを感想ということにしよう。うんうん、そうしよう。

 『やがて君になる 佐伯沙弥香について』の感想は以上です。

 

 書き忘れた。

 もうひとつ、佐伯沙弥香が偽らないことがあった。

 それは相手のどこを好きになるのか。彼女は容姿、とりわけ、顔とはっきりしている。そこをはっきりいえる部分を美しいとは思わないが、好感を持つ。

 それはぼくにもなんとなくわかる。ぼくにも男女問わず好きなタイプの顔がある。性格とかは知らないが、マスクから鼻を出し、どことなく横柄に映り、ホモソーシャルが服を着て歩いている感じの麻生太郎というひとのことはなんとなくすごく嫌い。しかし、彼のクチャクチャの笑顔だけは好きだ。男女問わず、ああいう顔になるひとをぼくは好きなる。(あまりニュースを気にしていないので、麻生太郎の最近の発言とか失念していました。その発言に絡めてごにょごにょみたいな意図はないです。単に彼の笑顔がぼくの美観に合うというだけの話。沙弥香の顔の好きなるきっかけというのも、そのひとの中身を除外しても好きという話だと思ってます。燈子への恋情の始まりはまさにひとめぼれでした。)

 

今さっき、ビビッときました

 百合作品がなんであるか、唐突に理解しました。

 お互いに「綺麗」とか「素敵」と面と向かってではなく、いいあえるのが百合なのではないか?

 無論、見た目のことではない。

メモ、時々、感想

 よく寝た。二度寝をした。三度寝は諦めた。

 

 『やがて君になる 佐伯沙弥香について』3巻メモ

 佐伯沙弥香の恋愛の仕方は変わったのか?

 自分を偽るのにそのひとに理想の自分像があるか、否かはどうでもよいことなのかもしれない。自分を偽っているという感覚のある、なしのほうがよほど大事そう。

 気になっていた沙弥香の恋愛の仕方に変化はあっただろうか?結論からいってしまうと、ぼくにはよくわからなかった。なんとなくではあるが、彼女のこころからそのことへの後ろめたさは消えたとは思える。でも、はっきりとは答えが提示されないあたりがよいのではないだろうか?そう簡単に片付くような問題ではそもそもないのだ。共感を読者にさそうような「あるある」ではなかった。

 

 よく練られた構成だったと気づく

 なぜ小学生の話からはじまったのか?そこがおしまいまで読むと分かる。また、小学生の時に出会う女の子に名前がないのもそのためか。見落としている可能性もあるが、この少女については名前に加え、年齢も明かされていない?ただし、その少女が枝元陽である可能性を示唆しているわけではない。うーん、ここもそこまでいいきってよいものか、ちょい悩む。陽の泳ぎが遅かったのも、水中の沙弥香を見るためでしょ?そっくりそのまま小学生のときの出来事に重ねたのか、否か?

 自覚なく沙弥香は自分の祖母に似てきている。このあたりの描写はうまい。沙弥香はいってみれば、勘のよいばーさま予備軍。でもね、これは実際には適当に言ったら、あたっているというだけの話でつまり、あたり、はずれが重要ではない。勘のよいひとというのは周りに安心感を生む、それが事実上の効果なのだと思う。で、「優しさの形」とかいわれちゃうわけだ。

 まあ、そのことに限らず、沙弥香は祖母に似ているのだと思う。祖母も同性愛者であり、それにも気づいているはず。沙弥香にばーさまのことばがささるのは似ているからだよ。なぜなら、ぼくには全然ささらないから。彼女は誤解している。祖母は勘が良いのではなく、彼女に似ているだけなのだ。

 うーん、こうしてみるとかなりきつい話だったのかもだ。偽り続けた祖母の存在。

 

 組み合わせ

 佐伯沙弥香/枝元陽 自分を偽る/自分を偽らない 年上/年下

 七海燈子/小糸侑 自分を偽っていた/自分を偽らない 年上/年下

 うむ、これからぼくはなにを読み取ればいいのか?さっぱりわからん。

 

 異なるタイプの偽る自分

 誰に対して偽っていたのか?燈子と沙弥香、それぞれの場合

 燈子は自分に、沙弥香は相手に。

 このことについてはちょっと時間をつくって、考えてみたい。

 現時点のぼやっとした感覚では作者の違いかな。

 

 おまけ、だが泣けた

 佐伯沙弥香はひとに対する許容範囲が大きくなる。

 泣ける。ぼくもこれはそう。前は嫌いな奴がいっぱいいた。今でもいるけれど、確実に減っている。沙弥香と少し違うのは、その多くはぼくが無関心になったゆえ、でも、まあ、沙弥香みたいなひとは前は嫌いではなく、苦手だったが、今は好きよ。こっちはそうでも、あっちもそうとは限らないのが問題。

 

 感想を書くときにそなえて

 この作品の主題は偽りの自分

 中学生時代は本棚、高校生時代は平行線

 偽りの自分が問題となるのは恋愛において?答えはノー。自分が問題になるのはそもそも恋愛時というほうが正確。日常で自分が問題になるのはだいたい何かに相対したとき。それはひとであっても、本であっても、神であっても、なんでも構わない。といいきりたいところだが、佐伯沙弥香、あるいは、七海燈子を見ると分かるように、相対するものがいなくなっても、この問題だけは残る。なんでだろうね?だから文学になるのか?「愛は消えて、傷跡が残る」問題と命名する。

 ただ、この作品が文学たり得たのは偽りの自分だったからだと思う。この屁理屈をとおすための感想になる予感。

 

 百合作品に対する理解度はあがったのか?

 わかりまぜん。

 

 

 

 

寝る前に言う寝言の記録

 『やがて君になる 佐伯沙弥香について』3巻を読み終わる。

 感想としては面白かった。

 メモは今日は眠いので明日にする。一晩寝かせるといい感じになるのだ。カレーも、本の感想も。

 ちゃんと感想を書くかはわからないが、そこに書くような話題でもないので、ここに。『仮面の告白』を書いた作家は老いて、この小説を読む機会があればよかったのに…生年1925か…燈子、沙弥香、それぞれに彼はなにを思っただろう?

起きているときに言う寝言の記録 その2

 2巻メモ書きの前に少し別のことを

 考えてみると不思議なことで佐伯沙弥香の内面の葛藤、偽り自分というものは恋愛そのものには直接のかかわりがない。なにを突然、言い出すのかといぶかしむひともいるかもしれない。自分でも、そうは思う。

 なにから話を始めればよいのか、さっぱり見当もつかないので、まずは自分を偽るとはなにを意味するのか?そこから考えてみたい。ひとにはなにがしかのあるべき理想の自分というもの、自己イメージがあり、それとのズレが生じたら、その状態を偽ると見るのではないか。そのことは基本的には当人しか知りえない。

 ところが、恋愛には相手が必要になる。だいたいの場合はそうだろう。あなたに好かれるために偽っているの、とこちらから告げない限りは、相手に偽りの自分問題を知られることはないし、あまりそのことを告げるひとはいそうにもない。とすれば、恋愛相手との関係性においては直接のかかわりはない問題、と言えるのではないか?換言すれば、この種の悩みは恋愛にはつきものであっても、副次的なものとなる。書くのも野暮とは思うが、自分を偽ることを目的に恋愛を始めるひとは少ないはずだ。第一、迷惑な話なので、できれば恋愛以外のことでそれを試してほしい。実際、それは杞憂で、たいていはその逆、恋愛の成就を願って、偽りの自分を始める。

 そして、問題はその先にある。副次的なものでもあるにもかかわらず、なぜ偽りの自分が文学の主題になりうるのか?

 そのことがぼくには不思議に思える。ちょくちょく自分でも書いてきたことだし、ありえそうな推論として、内面を描くのが文学だからと仮定してみる。恋愛についてと同様に作者の目的が恋愛を描くことにあるのだとすると恋愛にこの種の嘘はつきものだからとなるのか?あるいは、偽りの自分からの脱却を描くためだろうか?あれ?っとなる。脱却を描くことが恋愛になるのか?ならないだろう。しいていうなら成長ということか。混乱の兆し。

 問いの立て方がおかしいのかもしれない。

 現時点で言えること。だれかからいかにも共感されるであろう「あるある」を描くのは文学ではない。恋愛なら日常のふたりの関係をリアルに活写するのが文学ではないということだ。ん?今のはなに?と読みながら、立ち止まるようなところがなければ面白くない。理解に苦しむようなところがなければ、それはなんだ?あるある大辞典?(実在のそれとは一切、関係はありません。見たこともないので知りません。)佐伯沙弥香のいう偽りの自分は「あるある」のようで「あるある」ではない。この点がとても大事で、この作品のもつ文学性にもなっているという今のところの解釈。

 具体的にいえば、昨日、はっきりしたことだが、『やがて君になる 佐伯沙弥香について』で泣いているのは彼女ではなく、ぼくなのだ。変だなと思う。「あるある」とはならなかったのだ。ぼくは彼女への理解を拒まれたような錯覚に陥る。それにもかかわらず面白いから、不思議なのだ。

 

 2巻の感想、メモ

 3巻に行く前に、小学生時に沙弥香がスイミングスクールで出会った少女の名前が明かされない。今更、それが気になっている。

 2巻のメインは七海燈子と沙弥香。原作の補完的内容といえるのかもしれないが、内容が補完的であるわけではない。なぜなら、原作を読まずに2巻を把握できるように書かれているからだ。いや、原作を知っていれば、より楽しめるとはおもうが、あれ?余計なことを書いてしまったかもしれない。この小説に関する感想については原作で得られる知識にはたよらないと書けばよかった。

 沙弥香の恋愛の仕方に変化はあったのか?あったはず、としか2巻の終わり時点ではいえない。燈子へ告白したのだからそうなるはず。燈子との関係においても沙弥香は自分を偽り続けた。燈子の望む関係性を続けるために沙弥香は自分の願いを告白する日まで想いを押し殺していたのだ。ただ、2巻時点でぼくが理解できたのはそこまで。なにがどう変わったのかまでは理解できていない。3巻でわかるといいな。

 小糸侑との関係についてはもっと描かれると思っていた。この関係性はお互いに偽らずに、飾らずに済むということか。恋愛ではないから可能なこと。

 あと大事なのはふたりの友達。吉田愛果、五十嵐みどり。モブではない。さらに燈子を加えた4人組の関係性。

 もうひとり大事な登場人物がいた。沙弥香の祖母。勘の鋭い老人、前は苦手だった。ところが、自分の親が老いて、いや、一緒にいた犬が老いていく様を間近に見て、そういう意識はすこしぬけた。ぼくは老いてからのほうが犬のことを好きになったのである。

 2巻で感じたことのひとつ、ぼくから見てこのひとは怖いというのが数名いたこと。沙弥香、侑、それと吉田愛果。侑は原作時点でそうだったかも。逆に怖くないのは燈子。不明なのは五十嵐みどり。

 この怖いって感覚は理解ができそうにないって感じに近いのだと思う。燈子のことはわかるのか?と聞かれれば、わかる気がする。高校生だったころの自分を想像して、当時の自分でも唯一理解できそうなのは燈子だけかも?独り相撲が得意そうなところだけがわかるというにすぎないが…精神的に幼いというか、他者がいないというか、これは誉めことばです。燈子の幼さは小説内でもとてもうまく表現されている。

 沙弥香について理解できないのは、本棚。ミステリー小説がいまだに置いてあること。なぜ彼女は残しているのだろう?でも、そこが魅力でもある。

 まあ、ひとことで言えば、2巻も泣けた。恋愛と限らず、だれかに教えてもらえるような、教科書があるようなことでない場合、あるやり方ではじめてしまったら、それに呪縛されるみたいな…でも、沙弥香の物語は「あるある」では収まらん感じ。

 「あるある」で終わらないのは原作も同様。