忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモというか感想というか途中から感想っぽくなったので感想

 七海燈子と佐伯沙弥香の「偽りの自分」について

 昨日の時点では別のものとしていたけれど、どちらも独り相撲と見てみるとして、考えを進めてみよう。

 

 七海燈子の場合

 理想の自分とは姉そのものになること。で、それは本来の自分と彼女が考えているものはおそらく別。恋愛のために自分を偽っているわけではない。

 そんな燈子に対する疑問。本来の自分というものが一般的にありうるものだとして、それに類するものが燈子にあるのか?また、さらに別のふたつの疑問が生まれる。ひとつめは彼女が考える本来の自分は忘却の彼方ではないのか?もうひとつは、彼女が姉を演じたところも含めて、それを自分と見ることはできないのか?原作をもう一度見ないと忘れてしまった。原作を要参照であれば、小説版の感想からは七海燈子については省いて、書こう。

 

 佐伯沙弥香の場合

 沙弥香の場合は理想の自分についてはよく分からない、というのはこれといってこの小説内で言及されていない気がする。彼女の中ではっきりしていることは恋愛において相手に好かれるために嘘をついてしまうこと。柚木先輩にすすめられたミステリー小説を読み、それほど面白くなかったのに面白かったと言ってしまう。正直な感想を述べて、嫌われるのを恐れた。この挿話などは非常に共感される部分にもなろう。恋愛あるあるといっていいかもしれない。沙弥香の場合は好きでもないミステリー小説が並ぶ本棚にその変化を見てとれるが、ほかのだれかを想像してみて、相手の好みにあわせ服装、化粧、髪型をかえる、あり得そうなことである。

 ではなぜぼくがそれでも「恋愛あるある」とは思わないのか?彼女が自身が同性愛者に「なった」ことを偽りとは思ってないのが不思議だった、そのことによる。詳述はしないが、そのきっかけが突発的な事故ともいえるようなもので、沙弥香の同性愛への確信は余計に不思議に見える。彼女の内面は共感を得やすい部分のその先をちょっとほじくり返してみると容易にわかり難い部分にぶつかるように描かれているのだ。そして、彼女は自身が同性愛者である自己規定には疑いをはさまない。そこに美しいものの影をぼくは見る。

 また、はじめにふれた相手に好かれるために嘘をつくという問題も単に共感を得やすいというだけであって、解決が容易なわけもない。完結する3巻のおしまいまで彼女が今後、恋愛において自分を偽ることを止めるとは言い切っていないのだ。ただ、そのことに後ろめたさを感じるのは止め、前向きにとらえている様子はある。

 また、小説の中からこの「偽りの自分」問題を取り出し、日常に置いてみると非常に面倒なことになるひともいるのではないか?『俺ガイル』の「君は酔えない」問題も含めて、個人的な印象に過ぎないが、こういうのを中二病というのではないだろうか?埴谷雄高の「自同律の不快」も。そして、ぼく自身を振り返ってみても、このようなことに思い当たる節があるにはあるが、今、大きな悩みとなって、苦しんいるわけでもなく、なぜかそれなりに楽しく生きているのだから不思議。バカだから生きてこられたというのが本当だとして、なお不思議な感じは消えない。だから、沙弥香は小説で最後あんな感じなのかなと一応の納得はした。彼女は発情していた。

 

 構成について

 入間さんの『安達としまむら』の7巻、9巻でも感じた。よく考えられた構成になっている。

 ぼくの読みについてはこのへんは甘いところがあり、気づかずに読み終えてしまった部分もあるだろう。以下、気づいたことを

 

 沙弥香の祖母について

 祖母との挿話には必然性があった。正直、ぼくははじめこの挿話は退屈だと思った。よくある「年の功」の描写。人生を分かったふうな大人が出てくる。前ほど嫌いではなくなったが…沙弥香の祖母は孫が気づいていなさそうなことまで言い当てる勘のいいばーさまとして出てくる。そして、読み終わってみると沙弥香にもその側面があったのだと分かるように描かれているのだ。勘のいい沙弥香なのだ。小糸侑が七海燈子のひとり暮らしのアパートに「お泊り」にいったことを見破る。

 ただ、ぼくはこの「勘のいい」についてはことば通りには受け取らなかった。特に根拠はない。また、自分がそういうものを嫌いだからではない。ただ、なんとなくそう思ったに過ぎない。で、どう解釈したのか?適当なことをいったらあたったと考えている。祖母のことばが沙弥香にささるのはこのふたりが似ているからだろうと。このふたりが似ているというのは意外とこの小説で大事な気がする。きっと、そうなのだ。祖母も同性愛者だったが、名家ゆえか、それを隠して生きてきたのではないか?

 祖母も自分を偽り続けたひとだったのだ。沙弥香も自分を偽っているが、祖母との違いは明白で、同性愛者であることを隠してはいない。この小説が美しいのだとすれば、この点以外にはない。そして、祖母を思えば、美しくも悲しいお話なのである。(ただし、この読みは非推奨ではあります。)

 

 構成としてはもうひとつある。

 小学生、中学生、高校生、大学生と順に描かれるが、大学生時の話は小学生時の話に重なるように描かれるのだ。

 ただ、ぼくにはこの凝らされた技巧を読み取ることはできなかった。そこにはどんな意味があったのだろう?

 

 原作要参照だが、もうひとつあった。

 燈子とのじゃんけんが2回描かれていた。

 1度目は生徒会室で、2度目は喫茶店で。

 燈子にとってじゃんけんが何を意味するのか、そこがわからないと分かりづらいとおもうが、小説だけ読んでも

 1度目は悲劇として、2度目は喜劇として(皮肉になっていないというつっこみはいらないです。皮肉を書いたつもりはないのですから。)

 ということは分かる。

 これは冗談にしても、1度目のじゃんけんで沙弥香は燈子との間に見えない壁があったことに気づき、2度目ではそれを感じなかったことだけは分かる。

 

 このほかにあるのかもしれないけれど、ぼくが気づいたのはここまで。

 

 うーん、これを感想ということにしよう。うんうん、そうしよう。

 『やがて君になる 佐伯沙弥香について』の感想は以上です。

 

 書き忘れた。

 もうひとつ、佐伯沙弥香が偽らないことがあった。

 それは相手のどこを好きになるのか。彼女は容姿、とりわけ、顔とはっきりしている。そこをはっきりいえる部分を美しいとは思わないが、好感を持つ。

 それはぼくにもなんとなくわかる。ぼくにも男女問わず好きなタイプの顔がある。性格とかは知らないが、マスクから鼻を出し、どことなく横柄に映り、ホモソーシャルが服を着て歩いている感じの麻生太郎というひとのことはなんとなくすごく嫌い。しかし、彼のクチャクチャの笑顔だけは好きだ。男女問わず、ああいう顔になるひとをぼくは好きなる。(あまりニュースを気にしていないので、麻生太郎の最近の発言とか失念していました。その発言に絡めてごにょごにょみたいな意図はないです。単に彼の笑顔がぼくの美観に合うというだけの話。沙弥香の顔の好きなるきっかけというのも、そのひとの中身を除外しても好きという話だと思ってます。燈子への恋情の始まりはまさにひとめぼれでした。)