忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

ご飯をはやめに食べたので今日はもうひとつ

 見たアニメについて、いくつか

 

 『スーパーカブ』今期、録画するのはこれだけかも。中古の相場とか知らないが、いわくつきのそれはおじさんの嘘なのでは?いかにもお金を持って無さそう、それでは仕方ない…みたいな。ともかく、雰囲気、少なめのセリフ、なにに顔がほころぶのか、そこらへんがぼくの趣味にあう。ちなみにぼくはバイクに関心なし。

 この作品「も」そうなのか、と感じるが、この空気感。なんなのだろう?小熊の境遇に関する説明がなくとも、この空気感になったはず。

 

 『美少年探偵団』面白いけれど、このノリはきっついのうー。(腐女子向けとも思わないし、ディレッタントな、饒舌なノリに対してではなく、あのノリはきっついと今は感じる。)オチが見えてしまったけれど、その予想は外れてほしいとちょっぴり思う。

ごく個人的な…

 社会が構造的に生み出す理不尽にはそれほどの興味がわかない。ところが、個人のこころにあらわれる理不尽はなぜかくも面白いのか?

 以前、そのように大雑把に捉えていたけれど、もうすこし踏み込めそうだ。

 『やがて君になる』の小説のメモ書きをしながら、考えたことだった。

 主人公の佐伯沙弥香は14歳で同じ女子校に通うひとつ上の柚木先輩との初恋を経験する。彼女は相手に好かれようと自分を偽り、そのことに後ろめたさをおぼえる。この場合、恋愛関係から生み出された理不尽とはかつてとは異なる自分であり、それが個人のこころの問題に転化されると偽りの自分になった。そんな見方はできないだろうか、と昨日思った。

 以前はざっくりと社会/個人と図式的に見て、個人に重きを置いていたのだけれど、ぼくが本当に関心を持っていたのはそこではなかったのかもしれない。個人のこころの問題に転化したときにおこる質の変化に関心があったのだと思う。このことに気づいてなにになると問われれば、なににもならないし、おそらく生活に役立つこともない。でも、面白いのだから仕方ない。

 質の変化、と書いたのはごまかしで、適当なことばが思いつかない。今のところはこの辺でこの話はおしまい。小説の内容に集中できなくなる。

 偽り、後ろめたさということばに帰着するあたりはなにゆえか?時代性、作家性、作品性?一般的にはマイナス要素とされるようなところに目がいってしまうのはぼくのせい。

 

 あと、昨日書き忘れたこと。柚木先輩の内面も見てみたい。「遊び」ということばに込めた思いを知りたい。

メモ

 昨日の日記で居眠りしながら書いた箇所、話が重複していた気がするがもう面倒なので放っておこう。

 それよりも今、優先するべきは『やがて君になる 佐伯沙弥香について』第1巻のメモ

 視点の移動はなし、したがって、ひとりのこころの動きを追うことになる。

 小学生時、突発的な出来事

 中学生時、失恋

 このふたつを通じて自分が女性を好きな女性であることに気づく。こういう言い方が正しいかのかは分からないが、沙弥香は同性愛的指向に「なった」ということか。

 初恋の描写、その破れ方。

 七海との出会い。

 昨日考えた視点は早くも捨てなきゃいけないかも。

 『やがて君になる』アニメ視聴時にも感じた「後ろめたさ」の感覚。

 ぼくは以前はこのことについて何を書いたのか。見直してみるか。確か、書いた記憶がある。

 佐伯の場合、これはかなり明確に描写されている。恋愛、そのものへの後ろめたさみたいな?もう1回読み直すか。女性/女性の恋愛であることへのそれはない気がしたのだけれど、誤読かも?まあ、要確認。

 あと、とくにちゃんと理解したほうが良さそうなのは沙弥香の恋愛観かな。2巻以降はまだ未読なので、ここに変化があるのだろうか?恋人に好かれるように自分を偽る、それに対する後ろめたさ、1巻時点の佐伯の恋愛観をひと筆書きすれば、こんな感じだろうか。彼女の場合、それは偽りの本棚となってあらわれる。とてもその様子は痛々しい。そして、その偽りの本棚は柚木先輩(沙弥香の交際相手)のいうところの沙弥香の「優しさの形」の別名である、と解釈した。

 1巻時点での疑問。なぜ沙弥香だったのか?まあ、本編は七海と侑の話だったからか?それにしても沙弥香の内面…泣けるな…失恋にではなく、1巻時点の彼女の恋愛の在り方に。まあ、でもなんだ。これは聡明な彼女の言う通りで、恋愛の仕方とか、参考書とか買ってきて予習するわけでもなく、いきなりぶっつけ本番なわけだから、彼女が自分を偽るという仕方で始めてしまったのはしんどいだろう。うん、泣けるな。この場合は、性別を偽るというような話ではないので誤解なきよう。相手に好かれる人間になるというのが彼女には虚像にうつるということだ。うーん、難しいかも。自分を偽らない恋愛ってありうるのか?偽る部分はだれにでもあって、その自覚のある、なしに分かれ、自覚したものだけが後ろめたさに耐えることになる、そんな世の中はうまくできているのか、いないのか?

 つい最近も大きく予想を外したわけだが、軽率なので今後について予想しちゃおう。彼女の恋愛観は変わる、というのは半分冗談にしても、沙弥香の恋愛観についてはこれからも注目しながら読んでいこうと思える、そんな感じの第1巻だった。もっとも、読んで泣いているのはこっちだけで、彼女のほうはそれほどでもない。

 

「作者の死」再考、百合作品の仮説など

 ①「作者の死」再考

 宮崎駿さんが権威化する過程はぼくは実際にはリアルタイムでは体験していない。

 押井守さんについては『スカイ・クロラ』をリアルタイムで見たので、時代の目撃者になるはずだった?なったのかもしれず。パンフレットも部屋のどこかに眠っているはず?あ、でも、ぼくは押井作品は『立喰師列伝』が好き。

 庵野秀明さんについても同様で微妙にぼくはリアルタイムでの権威化の目撃者としては不適格になる。

 で、今、ぼくは『進撃の巨人』の作者諌山創さんが権威化する過程の目撃者になっているか?

 ネタバレ調査のために覗いたのは「進撃の巨人ちゃんねる」というまとめサイトという呼称であっているのかは分からないが、そこで、見た限りでは結末について賛意にあふれているわけでもなかった。ネット社会全体としてみるとどうなっているのだろう?(巨大掲示板は詳しいネタバレがありそうだったので、即閉じた。まあ、今は見ても大丈夫なのだけれど、見に行っていない。)

 その前に確認事項として、ぼくはそこまで権威化自体が気になるほうでもないという意見は残しておこう。ぼくが気にするようなことではないと百も承知だが、商業上の理由で権威化が必要というのは分かる気がする。受け手のぼくとしても、必ずしもサブカルのど真ん中に関心があるわけでもないので、稼ぎ頭的存在の大きさに敬意を持っている。また、時代と才能がかみ合うなど、複雑な要因にも依拠していて、つくられた権威化がそううまくいくはずもないので、『進撃の巨人』についても同様で、この作品自体に力があったのいうが大前提なはず。

 上記の監督たちの頃、ネット社会の風景はどうだったのだろう?今ほどSNSは発達していない?とすると、もっとマスメディアによる宣伝が重要だったのだろうか?

 

 なんで、こんなことを書いているのか?実に、間が悪い話ではあるが、バルトやフーコーのいっていた「作者の死」についてすこしだけ興味がわいた。彼らの主張は文学的テキストの持つ特権性に対する批判であり、厳密に見れば、ぼくが目の当たりにしている事態とはすこし事情はことなるのかもしれない。ただ、作者還元主義によって権威化することで、読者の読むとか、見るとかいう行為の創造性が失われるのは面白くないという意味で、彼らの主張にもうすこし耳を傾けようという気になった。意外といるのだ。「作者が書いたものを素直に受け取れ」とか「文句言うなら見るな」みたいなつまらんことをいうひとが…

 いやはや、以前からそういう意見が一定数あって、SNSの発達でそれが可視化したということなのか?まあ、ちょっとぼくにも見当はつかない。たしかにつまらない批判とかもあるし、ぼくの感想なんかも批判ではないが、面白くないところもあるとは思うけれど…

 たとえば、過去干渉が示唆されたことにより、読者視点で物語が茶番化したみたいな見方はつまらない。たしかに、その見方に一理あることは認めるが、やはり、つまらない。なぜか?登場人物にとっては、かりに茶番化した人生であったとしても、そうは感じられないはずだからだ。読者は自分の見た物語が茶番であることも理解できるが、同時にその人生を生きているひとにとっては茶番でないことも理解できるだろう。そればかりではない。ぼくは知っている。いやみんな知っているはずだ。茶番の中にあってもひとは必死に生きる。これまで生きてきて、茶番のひとつやふたつを演じたことがないひとなんているわけがない。エレンにもその感覚はあったはずだ。

 ただ、それでもモヤっとした読後感があるのも事実。別作品に夢中なので、これ以上書く予定もなし。

 それはそれとして、何かについて語りたくなるみたいな衝動を抑え込むのってどうなんだ?つまらんぞ。

 

 ②百合作品に関する仮説

 『安達としまむら』について

 安達と島村の自己規定の性はおそらく女性。

 でも、自己規定の性をどちらも、あるいはどちらかを男性に変えてみても整合性を失うことなく、物語が成り立つという仮説。

 自己規定の性についてはもうどちらでも構わんのではとなる気がしなくもない。

 ところが『かぐや様は告らせたい?』ではそうならんのでは?

 思い付きで書いたが、その違いはなにに起因するのか?とか検討していくことで、百合作品の本質に迫れるといいなみたいな希望的観測。

 この視点をもって、『やがて君になる 佐伯沙弥香について』を読んでみようかなと。

 こんなことを書いておいて、なんだが、この仮説はそうそうにぽしゃる予感。

 まず、自己規定の性にせよ、男女に差があって、百合作品の質感を生んでいるという直感のほうが正しそうだから、とはいえ、ものは試しだ。

 

 あともうひとつなにか書く予定だったが、忘れた。

 思い出した。

 

 ③今期のアニメ

 2作品かタイトル段階で脱落。もう1作品は理由は明記しないが、脱落。まあ、いいか。くそげー過ぎて、直接は関係ないが、見るもんかってなったのがひとつ。1期を見ていないというのが主な理由ではあるが…

 道で拾うのは100円玉だよね?というか、今どき道で拾えるようなものは落ちていない気がするな。とか書くとなんだか、ずれちゃうのだが、タイトルって大事なのではないかと受け手のぼくが思った。

 『86』しばらく見てみようと思う。

 『Vivy』同上

 『スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました』同上

 『スーパーカブ』、『美少年探偵団』は見る予定。

 

 

 

9巻の感想の補足

 1期のハイライトは個人的には8話の体育の授業の場面だと思っている。映像に関してド素人のぼくが太鼓判を押すのだから、間違いない。ここでいうハイライトは映像面に重点を置いた場合であり、ストーリー面では別にある。そのお話は今日は割愛。

 島村がふと目をやると安達が卓球台を見つめていたシーンだ。手元に録画もしくはDVDを持っている方はぜひ見直してみてください。しつこいくらい目で島村を追っているはずの安達さんがこの場面では意外や意外、島村を見ていない。そのことに島村も気づき、安達の視線の先にあるものを確認するとそこには例の卓球台がある。ことばにするとぼくの文章が味気ないせいもあり、あんましなのだが、アニメではすごくよかった。

 2期があるのなら、そのシーンに匹敵するくらいの出来を期待してしまうところが9巻にはあった。以下、長いが引用。

 

 <ここまで喋ることのなかった安達の顔を覗く。安達は別の人に絡まれている自分の母をじっと見据えていた。わたし以外をみている安達は珍しくて、そんな認識に少し照れて、それから物珍しさにひかれて、そんな安達を見つめ続ける。

 戸惑いの中に熱を帯びた安達の瞳は、今までにない輝きを見せていて、とても綺麗だ。>(『安達としまむら』第9巻 pp.197-198)

 

 安達が島村を意識してない時に見せる顔に島村が気づくのがぼくのツボなのだとさっき判明した。散歩していたら気づいたのだ。本当にそうなのか?まあ、よくわからない。

 そして、本当に面白いのはその先なので、それはぜひ皆さんが実際読まれることをお勧めする。

 独白として聞きたいシーンの紹介はしない。引用が大変だからということだけではなく、はずかしいからだ。ぼくのこころの独白ではないからはずかしいってのは変な話の気もするが、以前やったらはずかしかったのだから、仕方ないじゃないか。

 2期が楽しみですね。

少しだけ補足

 『進撃の巨人』について

 ぼくはこの作品を政治劇あるいは思想劇としてみない、人間ドラマとして見る、と書いてきたが、もしこれが現代文の答案なら0点の自覚がある。どう考えても、作者は政治劇、思想劇もメインテーマとして扱っていた。玉砕覚悟で突撃するものの死に意味はあるのか?という問いかけのあたりからそれはより鮮明になったはずで、以後、「戦争」が描かれ、ジークの考え、「虐殺」と様々なものをこれでもかというくらいに読者に投げ続けたのである。で、ぼくはその投げ続ける姿勢に敬意を持っていた。しかも、それなりな尺をとって描いてきた。ジークの考えなんかぼくの予想よりはるか上をいくものでたまげた。

 

 では、それでもなぜぼくが政治劇、思想劇として見ないのか?

 まあ、この日記では何度でも触れていることだ。作品の社会批評性は受け取らないぼくの姿勢にも関係する。

 日々の生活の中ではその見方は二転三転しているが、ぼくからするとある種の権力批判などは知的遊戯に見える。権力批判に限らず、ややこしい問題に対するある種の解答がだいたい知的遊戯に見える。

 これは漫画だから、アニメだから、ドラマだから、映画だからそう見えるのではない。現実に起きていることに関するニュース番組であっても、新聞における論説であっても、そう見えてしまう。

 こういうのを「反知性主義」というのかしら?だとしたら、ぼくにもその側面があるということだろう。そんなの理屈だよってやつ。

 で、『進撃の巨人』の作者はそれでも、その領域に足を踏み入れ、作品を完結させたのだから、立派なもんだなとぼくには見える。

 ただ、答えをだせるように問題設定を限定したりするなど人間が積み重ねてきた知的営為を否定するほどに傲慢でもなく、ぼくは中途半端な感じ。まあ、それでも暇を見つけては考えに没頭する日もあるので、すべてのことに無関心というわけでもない。

 

 ともかく、この領域に踏み込んだ作品(かならずしも政治を扱ったものに限らず、本質的にややこしい問題を扱っているのであれば、恋愛物語においても)、なにかみなが納得する答えが出てくると考えるほうが間違っているのではないのだろうか?そんなに簡単にみなが納得する答えが出てたまるか。

 

 最近完結したふたつの作品について

 『エヴァンゲリオン』、『進撃の巨人』の完結を見て、思ったこと、それは作者を語ることが作品を語ることになっている感じ。作者の存在なしには作品を語れないというべきか。ぼくはありとあらゆる作品について、作者を意識してきたほうだけれど、この2作はかなり強烈にそれがあるのだと知った。

 ただ、最近『テクストを遠く離れて』を再読して、ぼくは自分と作品の関係を見直すきっかけにもなった。

 オチなし。

 オチにはならない話を少しだけ。まず、作者の存在を重要視する場合、はっきりいってしまえば、作者を神と見る場合、作品は作者に従属し、完全にそのコントロール下に置かれるのか?そう言い切れるのか?これは作者によって異なるだろう。ただ、ぼくの趣味からするとそういう作品に見えたら、そこまで面白くないと感じる。読者に許されるのは、作者の意図をできるだけ正確に読み取るだけになってしまうからだ。この場合、作者のつくる「世界」だけが存在し、読者のつくる「世界」が生まれる隙はない。

 一方で、作者の完全なコントロール下に作品が置かれていないとすると、例えば、作者のつくったはずのキャラクターがあたかも意志をもったように動き出す場合、あるいは、そう読者に見える場合、そのことによって読者が読むという行為から読者の「世界」が生まれる可能性につながる。

 読者にそんな勝手は許されないというのなら、無論、そうはならないわけだが。はて、ぼくらは、いやぼくはどう読むだろう?作者の意図に反することであったとしても、自分の読みにそれだけの自信がなくとも、読者として「世界」を構築していくだろう。そして、それをひとは「批評」と呼ぶのではないか?

今日のような天気が好き

 少し肌寒いくらいが散歩にはちょうどいい。

 『安達としまむら』9巻は面白かった。気合いを入れて(嘘)読んだので、サクサクと読み進めることができた。感想は面白かった。面白かったから一気に読めたというのが真実。

 9巻でもアニメ化されることで聞きたい独白かあった。安達と島村にそれぞれ1か所ずつ。

 日野、永藤、日野家の話。日野と江目さんの関係なんかは面白い。家族ではないから話せること。ところが、江目さんは日野晶の家族でもあるだろう。血縁のある親子、兄弟、姉妹だけが家族ということでもない感じ?ひととひとの関係って面白い。まあ、そもそも既成の概念をあてはめて理解しようとするからおかしな感じになるのか。

 その話から、安達家の話へと移っていく感じ。見せ方がうまい。安達には新しく家族ができたように見えた。ぼくにもうすこし素直な目でこの小説に向き合いたいと思わせるくらいの挿話であった。自分の母を見つめる安達の瞳を想像して、島村同様にぼくも感動した。決して同じような目でぼくは自分の母を見つめることはないように思うが、それでもひとは感動するのだから不思議。(別にぼくは自分の母を嫌いなわけではない。)で、感動したのも事実だが、安達の「うううん、あんまり」、「楽しくない」で笑ってしまったのも事実。全然、素直な目になっていないかもだ。

 

 本の感想とは全然関係ない話。

 そういえば、いつくらいから心中の歌は作られなくなったのだろう?

 紅白を今年は少しだけ見た。そしたら『天城越え』が歌われていた。

 歌というよりも心中する作品自体がなくなったのだろうか?

 ぼくががきんちょのころにはすでにその手の作品は姿を消していたかもしれない。