忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

少しだけ補足

 『進撃の巨人』について

 ぼくはこの作品を政治劇あるいは思想劇としてみない、人間ドラマとして見る、と書いてきたが、もしこれが現代文の答案なら0点の自覚がある。どう考えても、作者は政治劇、思想劇もメインテーマとして扱っていた。玉砕覚悟で突撃するものの死に意味はあるのか?という問いかけのあたりからそれはより鮮明になったはずで、以後、「戦争」が描かれ、ジークの考え、「虐殺」と様々なものをこれでもかというくらいに読者に投げ続けたのである。で、ぼくはその投げ続ける姿勢に敬意を持っていた。しかも、それなりな尺をとって描いてきた。ジークの考えなんかぼくの予想よりはるか上をいくものでたまげた。

 

 では、それでもなぜぼくが政治劇、思想劇として見ないのか?

 まあ、この日記では何度でも触れていることだ。作品の社会批評性は受け取らないぼくの姿勢にも関係する。

 日々の生活の中ではその見方は二転三転しているが、ぼくからするとある種の権力批判などは知的遊戯に見える。権力批判に限らず、ややこしい問題に対するある種の解答がだいたい知的遊戯に見える。

 これは漫画だから、アニメだから、ドラマだから、映画だからそう見えるのではない。現実に起きていることに関するニュース番組であっても、新聞における論説であっても、そう見えてしまう。

 こういうのを「反知性主義」というのかしら?だとしたら、ぼくにもその側面があるということだろう。そんなの理屈だよってやつ。

 で、『進撃の巨人』の作者はそれでも、その領域に足を踏み入れ、作品を完結させたのだから、立派なもんだなとぼくには見える。

 ただ、答えをだせるように問題設定を限定したりするなど人間が積み重ねてきた知的営為を否定するほどに傲慢でもなく、ぼくは中途半端な感じ。まあ、それでも暇を見つけては考えに没頭する日もあるので、すべてのことに無関心というわけでもない。

 

 ともかく、この領域に踏み込んだ作品(かならずしも政治を扱ったものに限らず、本質的にややこしい問題を扱っているのであれば、恋愛物語においても)、なにかみなが納得する答えが出てくると考えるほうが間違っているのではないのだろうか?そんなに簡単にみなが納得する答えが出てたまるか。

 

 最近完結したふたつの作品について

 『エヴァンゲリオン』、『進撃の巨人』の完結を見て、思ったこと、それは作者を語ることが作品を語ることになっている感じ。作者の存在なしには作品を語れないというべきか。ぼくはありとあらゆる作品について、作者を意識してきたほうだけれど、この2作はかなり強烈にそれがあるのだと知った。

 ただ、最近『テクストを遠く離れて』を再読して、ぼくは自分と作品の関係を見直すきっかけにもなった。

 オチなし。

 オチにはならない話を少しだけ。まず、作者の存在を重要視する場合、はっきりいってしまえば、作者を神と見る場合、作品は作者に従属し、完全にそのコントロール下に置かれるのか?そう言い切れるのか?これは作者によって異なるだろう。ただ、ぼくの趣味からするとそういう作品に見えたら、そこまで面白くないと感じる。読者に許されるのは、作者の意図をできるだけ正確に読み取るだけになってしまうからだ。この場合、作者のつくる「世界」だけが存在し、読者のつくる「世界」が生まれる隙はない。

 一方で、作者の完全なコントロール下に作品が置かれていないとすると、例えば、作者のつくったはずのキャラクターがあたかも意志をもったように動き出す場合、あるいは、そう読者に見える場合、そのことによって読者が読むという行為から読者の「世界」が生まれる可能性につながる。

 読者にそんな勝手は許されないというのなら、無論、そうはならないわけだが。はて、ぼくらは、いやぼくはどう読むだろう?作者の意図に反することであったとしても、自分の読みにそれだけの自信がなくとも、読者として「世界」を構築していくだろう。そして、それをひとは「批評」と呼ぶのではないか?