忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ

 翻訳の話題について?話題の翻訳について?

 英語が幅を利かせる環境下で別の言語で書くことに経済学の分野ではなんらかの意味を読み取る必要はないということかしら。行動経済学ってなにを研究しているのかを知らないが、こういう問題を考えているのかと思った。字面から全然、違うものを想像してしまい、勘違いをしていたようだ。

 それはともかく、『日本語が亡びるとき』を読んだとき、著者による個々の主張については、たとえば、日本語学習の充実、とくに、日本近代文学のすすめについてなどはぼくの個人的な嗜好からも、なるほどと感じたけど、「日本語が亡びる」はいくらなんんでも杞憂ではないかと思ったが、存外、そうでもないのかもだ。

 話者絶滅というよりも、社会で読むに値するとされるものがことごとく英語に置きかわっていき、今風なことばにすると、「分断」が生じるというお話だったか。もうすでに、そうなっている領域もあるのだろう。英語を理解できる/できないで世界の見え方が変わるみたいな。

 翻訳技術の向上が埋め合わせになるのか?

 しかし、これにさらに技術へのアクセスの問題も重なってくるのか。新技術を知る/知らない?新技術が届く/届かない?

 世界規模の問題なのか。それにしたってどんどん分断していきましょーとはならない気がするけど、楽観的すぎるのか。

 ところで、AIが描いた絵画を見たことある画家と見たことない画家がいるとして、なにが違うんだろ。

 

 「声優」文化は世界的なものなのか。書きことばについては、一旦、忘れて、話しことばのほうの日本語について考えると、「声優」文化とはなんなのだろう。アニメを見ない人にはなんのこっちゃ?なのか。

 

 羊羹は黒糖がおいしいと思う。