忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

なんともいいがたい

 安保法案のときも、解釈変更による集団的自衛権行使容認のときにも「軍靴の音」 というものがちっとも聞こえなかったわたしもこの度は少々感じるものがあった。まず、なんというか自分自身に変化があった。なんといえばよいのか。街から人の姿が消えたことに対して、そういうものかと納得してしまった。天気のせいだったといえば、そうなのかもしれないが。

 いよいよ、あれれと思う事態になったのは、LINEによる健康状態の調査の話題を目にした時だった。このことにはどうにも納得いかなかったわけだが。戦時下というものなのだろうか。

 そもそも今回の事態に際して、政治家が今は戦時下にあるというような発言をすることに当初は違和感があったわけだけれど、いつの間にやら自分もそうなっていたのかと・・・。

 大震災の時はどうであったか。その前のテロがおきたときは?過去の記憶をたどってみたけれど、大した記憶は残っていなかった。なので、今回は書き残しておこうと思った。

 今回もまたかよとおもったこと。レストランで桜の木をバックに記念撮影した人がいるという話。こういう問題を倫理的、道徳的に非難するのがわたしはどうも好きではない。わたしもひとから後ろ指をさされるようなことは過去にもしてきたとおもうから、ひとにもそういった批判をしないという部分もあるのだけれど。後ろ指さされるようなことをした側の人も簡単に反省なんかしないほうがいいとおもうし、それを公言することも必要ないだろうと思う。私自身、過去の過ちをひそかに後悔しながら生きていく以上のことはしないだろう。

 今回よかったなと思うこと。緊急事態法が成立したこと。この法の範囲内で今回は対処されること、宣言によって市民社会が守られることを望む。ただ、必要ないのであれば、宣言してほしくないと思う。今日の段階では宣言されることを望んいるような空気感もある。というか、私自身、すこしそういう事態を望んでいるのではないかという・・・。

 いろいろ不満を持ちながらも読んできた橋爪大三郎がかつて日本が戦争を放棄したいうのは世界の中でもかなり特殊な選択をしたという話をしていた。その時はなるほどと思って読んでいたのだけど、今回の世相をみていると、そんな国民でも、疑似的といってよいのか、戦時下に臨むことはできるのだなと。

 自分を含めての話だけど、ずいぶんと気持ち悪いものだ。こういう私に冷たい視線をなげかけてくれそうな鶴見俊輔がいないことが少し残念だ。わたしは彼の日本人を見つめる目は確かなものだったと今でも思っている。