忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

晴れている

 気持ちのいい朝だ。

 あと、昨日、念頭にあったのは葉山隼人比企谷八幡だった。この二人はお互いに自分にはないものを持っているお互いに憧れを抱き、嫌悪を抱き、それぞれ自己嫌悪している。嗚呼、文学青年って感じ。それに由比ヶ浜結衣雪ノ下陽乃。雪乃ではない。雪乃は文学からもっとも遠くにいる人にも思える。

いろいろとメモ 主に冬アニメについて

 『とな天』は理解不能なまま見続けている。退屈なお話とはまったく思わない。でも、おもしろくもない。いや、すこしおもしろいところはある。隠し事はあるようだが、内面がない。よくわからない作品だ。

 

 『転天』は微妙におもしろいけど、これは、たぶん、ぼくのほうが理解が追い付ていない。けっこう、いろいろなことが複雑に絡まっている。一例をあげると、王女と弟の確執は弟の姉への愛に起因するが、それが屈折したのは姉に魔法の才がなかったからだ。で、魔法が本作では社会というよりも、国家の根幹にかかわるので、その屈折も複雑化する。もう、この時点で、ぼくには理解不能かもしれないけど、もうちょっと解釈を粘ってみる。さらに、ややこしいのは魔法の才に恵まれなかった姉は、魔法の才に恵まれた貴族令嬢に憧れに近い恋愛感情を幼い時から持っている点だ。タイトルにある「革命」から連想すると最終的にはこの階級社会は破綻するのだろう。当初、想像していたよりもスケールの大きなお話になりそうで、2期に期待している。

 しかし、なんだろう。構成の問題なのか?非常に物語の流れがつかみにくい。ここにきて王女と才女が魔法対決?を始めるというのが、不可解と思う。もっと序盤に起きていい出来事のような?原作はどうなっているのだろう。

 

 川端、乱歩を持ち出して、無教養と煽られたなら、安吾を対置して、銀座のネオンを肯定してみるとよいのでは。さらに、それが「安吾の可能性の中心」とそれっぽいことばを連ねてみるなどして、韜晦すると…うん、あまり、おもしろくないと思う。

 「記憶の中の東京」はそれぞれ違って、みんなでバラバラがいいと思うけどな。東京タワーがシンボルと言われても、ぼくには今ひとつ理解できないし?東京タワーがなにでできているのかを知ったりしても、その思いに変わりはない。

 生まれ育った場所の思い出といようなもの。最近、finalventさんが文学と場所のお話をnoteに書かれていて、なんとなく気になっていた。中島らもにぼくを踏みつけた町、ぼくが踏みつけた町みたいなお話があった気がする。『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』というタイトルだった。

 しかし、どんどん風景というものは変わっていく、これは仕方ない。記憶にとどめておけば、いつでも思い出せるぞ。小学校にあった大イチョウは消えてしまったらしい。この腕に抱きしめて、というのは嘘で、とてもぼくの両手に収まるようなサイズではなかったが、ちと寂しいけど、思い出せば、そこにある。とはやっぱ、思えないけど、とにかく記憶にはある。銀杏の木は残らなかった。

 

 やっぱ、短歌で雲とか、月とか、山とか、川とかを歌いたくなるのは、ずっとそこにあるからか。詳しいことは知らんけど、だいぶ、昔から月はあの姿をしているのだよね。詠むほうも、聞く、あるいは、読むほうも、あの月のことですよね、と。月がなくならない限り、読み継がれる気がする。

 

 『水星の魔女』を春まで待たされるなんて耐えられないと思っていたけど、冬アニメもおもしろかったので、意外とそうでもなかった。

 

 脱線してしまったが、記憶の中の東京がひと、それぞれで異なっているのがおもしろいと思う。中には今の東京なんて認めませんという人がいてもいいし、押井さんの作品はそういう作品だとおもい、楽しかった。ただ、ぼくは今の東京がけっこう好きだ。好きって程でもないかもだけど、楽しいとは思う。

 

 コンビニというのは日本全国にあるけど、夜中に明かりのともるにぎやかな感じはすきかもしれない。最近、見たアニメでもコンビニの描写がなかなかいいなと思ったのだが、なんのアニメであったか、忘れた。『おにまい!』のバレンタイン回か。忘れた。

 

 川は姿が変化しているのか。

 それでは、やはり空だな。街の風景の変わり映えについていけないとなったのであれば、ぼんやり空を眺めて歩けばいいと思う、って余計なお世話か。しかし、今どきだと、謎の白い物体?に出くわす可能性もあるのか。未知との遭遇的な。これまた、余計なことばをつけたした気がする。

 

 大分、お話が逸れた。

 finalventさんの文学論で気になったのは、近代知識人の型、その一つとしての文学青年というもの。中二病。まあ、ぼくもそうだな。それほど、自分を文学青年とは思わないけど。我ながら、痛い奴という自覚は抜けない。が、多少、歳を重ねて、図々しくなり、開き直りつつある。諦めているだけか。

 量産型という指摘。その後の読者層の形成とか気になるかも。というのはぼくは前述にしたようにそれほど読書家ではないが、文学が好きだ。ボケーとしているのはもっと好きだ。今だと、ボケーとしてる合間にアニメを見るのも好きだ。

 ともかく、文学青年というのはこーいうもんなんだという型はあって、今もそれほど変化がない気がする。キャラ造形からも、それが言えるような。アニメにも残っている。シンジ君とカヲル君。ピアノがキーアイテムか。綿谷新と真島太一。アニメのお話はこの辺でやめておこう。

 ぼくが持っていたのは新潮文庫だった。青空文庫の文章はたしかにいい。文章は音読で、リズムというのはそう思う。

 AIはこのリズムというものも、いろいろとこれからつくってくれるのだろう。楽しみだ。ぼくも、すこしは文章技術をあげたいが、まず、おもいついたことを左から右に書き流す癖を直す必要がありそうだな。

 

 それにしても、トニオは痛い奴だな、と悲しくなるのはぼくのほうであるのが不思議だ。

 

 そういえば、最近、ぶちあたっていた問題だと永井均さんの「独在性」の議論を文学青年風に読んでいたとは思う。私小説とは読者に勘違いさせるものと思っていたのだ。そんなことが起きうるわけがないのに、私小説に自分のこと、つまり、読者のことが書いてあるとどれだけ深く勘違いをさせるか?そこが大事なんだ、と。痛い読み方だ。痛い読者というものは非常に勘違いがはなはだしいので、作者の言いたいことをわかっているのは自分だけだとひとり勝手に感慨に浸るのだが、意外とその感慨自体は凡庸なものである。

 しかし、とても勉強になったというか、今も、その勉強をとびとびで継続しているが、「独在性」の議論はおもしろい。ぼくにはまったくなかった感覚だからか。世界はそのようにできているなんて、考えもしなかった。

 

 「独在性」について語ることばがいつのまにか「超越論的主観性」にすり替わる的なことになるような語り口というものはできはしないものか。メビウスの輪

 

 時計の針は視覚化したのもすごいのだろうか。視覚化というのもおもしろいと思う。パッと見てわかるというのはみんな天才では。見ているほうではなく、時計の構造をつくりだした人が天才。

 「独在性」の議論も、著作の中でふれられていたが、ぼくも文章ではなく、図像で理解の糸口をつかめた。でも、文字も目で見ているのか。よくわからなくなってきた。これはどつぼりそうなので、一旦、忘れる。

しかし、これこそ

 記憶違いであったかもしれない。

 「コーヒー」をどう表記するかをこれまで気にしてこなかっただけかもしれないのだ。「テレビ」とかも気にしてなかった。「テレヴィ」は見たことあるかも。「スマフォ」はみたことないかも。

 いや、やっぱ、全体的に表記をきにしていなかったのだと思う。

 「ゐ」と「ゑ」と「を」とか。「ヰ」、「ヱ」、「ヲ」、エヴァか。ヱヴァンゲリヲンは予測に出てくるのだな。なんかすごい発見をした気に、こどものころであったら、なったであろう。んなわけないか。

 

 あと、昨日、わかる気がする、と書いたのは、大江健三郎さんを語るにあたって、稚拙な政治運動と小説を対比し、そのふり幅でもって、小説を褒めるみたいなのはぼくも書いてしまいそう、といような。しかし、ぼくは大江さんよりも「第三の新人」のほうを熱心に読んだので、大江さんについてなにか言及しようとは思っていないのに、余計なことを書いた気がする。日記にはそういうのがつきもの?な気がする。ナイーブと思わないのは、それほど思い付きでもない。

典型的に

 大江健三郎に関心なさそうな人のことばを見かけた。

 江藤淳や蓮實さんのことばをひいて、大江健三郎の政治的な振る舞いをナイーブ、稚拙とする。ぼくも、あまり大江健三郎に関心がないので、わかる気もするけど、それでも、ナイーブとは思わん。渡辺一夫の影響は?と。放言すると、まず、諦観があるのでは、と。諦観している人にナイーブという評言がふさわしい、とは思えない。

 「コオフィ」という表記があることを最近、知った。

先日の補足

 昨日はずぶんと春らしくなってきたと思い、薄着で出かけたら、帰路、寒さにくじけそうになった。暖かいものを食べたら、眠気に襲われ、健康的に早めに就寝したが、その分、早起きをしてしなければならぬことがある。そのすることとは日記ではないわけだが、先日の補足を残しておこうと思った。

 

 西山事件について

 訃報に際し、言うようなことでもないとは思いつつ、なんとなく書いたわりに、その書き方が異常に遠回しでわかりにくいものになってしまったので。

 わかりやすく書くと、国家機密より個人のほうが大事だと言いたかっただけ。それを「取材源の秘匿」と記述したことで、職業倫理のお話と誤解されても困るな、と思ったのだ。『不当逮捕』の中で描かれた立松という人も、ぼくはこの線で理解している。立松和博さんという人は最後まで取材源を秘匿した。権力闘争に利用されたと気づいていたとしても、口を閉ざした。それは職業倫理として規矩しただけ、と言えるのか。ぼくにはどうにも、それだけとは思えない。仮に騙されていたのだとしても、彼にその情報をもたらした人物のことが好きだったのではないかな、と。妄想です。でも、『不当逮捕』を読んだとき、そんな妄想をして実に、やくざな世界と思ったのだった。(別の意味で、マスメディアはやくざな商売と思うし、尊敬しているけど、十分、整理できていないし、今のところ、整理するつもりもない。あまり関心がないので。先日はどうもこのあたりをごちゃ混ぜにしてしまった。)

 西山さんという人はもっと権力闘争の渦中にあることに自覚的であったと思う。自発的とすら言えるかもしれない。彼はなにしろ政治記者であったのだから。しかし、そこを非難しようとは思わない。でも、やっぱ国家の機密なんぞより大事なものがあったのでは?という疑問、違和感がぼくには残る。なので、本田靖春の西山批判には肯けるところがあった。

 まあ、一般的に、ぼくが抱いた感慨は頭、桜並木な幼稚なものとみなされるであろうか。それで、一向に構わないが。右派はもとより、左派とも明確に背馳した主張になるのだろう。右派は私に公を優先させるのは当然なのだろうし、左派は国家権力の悪を暴くのが目的であれば、ある程度、手段は正当化されると考えるのだろう。程度問題となるのか。(その種の意見を今回、見かけた。)

 

 アニメ『ルミナスウィッチーズ』がおもしろかったのは、ジニーが人類側の戦力損失を度外視して、モフィーを仲間の群れに返したことだった。非常にいい作品だと思った。ジニーはミラーシャのいうように「バカ」なのかもしれないが、といっても、本当はミラーシャもジニーをバカとは思ってなさそうに見えたが、ともかく、孤独を知悉するジニーがモフィーを仲間のもとに返したいと考えるのはごく自然なことに見えた。人類の勝利なんぞより、モフィーのほうが大事なのだ。それでいいじゃないか。それがいいじゃないか。と前は言い切ってしまえたのだが、なんだかなあ。

 

 従軍慰安婦問題については教科書的知識しか持ち合わせていないが、彼女たちが仮に嘘をついていたとしても、なんの問題もないと言明している人がいた。国家と個人が鋭く対立するような状況に置かれたとき、個人は嘘をついても構わない、と。『共同幻想論』で「逆立」と書いたときから、この点において彼の主張は一貫していたと思う。彼は彼女たちが嘘をついていると考えたわけではないですよ、「仮に」嘘であっても全然、問題ないといったのであって。

 余計なお世話かもだけど、近頃は条件節とか、比喩に対する理解がない人がいるようなので。

 

 全然、関係ないけど、成田さんの微妙なつまらなさは「口に出してはいけないとされることは、だいたい正しい」で終わるところで、「という妄想によってぼくは廃人であるそうだ」とは続かない。幻聴なのか、どうか。幻聴というか、だれの声が聞こえたのか。

 でも、微妙なつまらなさに留まるのもいいのかもしれない。大事なことかもしれない。あえておもしろくはしないという態度になにを見ればいいのだろうか。

 

 日記を書いているうちにもうこんな時間になっていた。

 

 

 

今ひとつ、よくわからない メモ

 ぼくも、話題のひろゆきさん論を読んでみた。早起きしたついでだけど。

 その感想、あるいは、その文章への疑問。

 その文章を読んでも、そもそも、なぜひろゆきさんの言動が問題であるのか?そこがわからなかった、というような感想自体がその文章の論旨からすると「冷笑系」ということになるのか?たぶん、そうなのだろうけれど、ぼくはあまりひろゆきさんから影響を受けていないというか、あまり知らない。

 しかし、なんとなくの印象としてひろゆきさんは若い人から支持されているのだろう。ぼくがけっこう影響を受けた吉本隆明なんかも、当時の若者(団塊の世代)の支持がすごかったと聞いている。もっとも、ぼくが彼の本に出会った時、彼はすでに老人だった。当時はぼくも若く、若者として彼の本を読んでいたわけだ。自分よりもすこし年上の人だと、彼らにとっての若者のカリスマは松本人志さんなのだろうか。その前だと糸井重里さんとか?浅田彰さんとかも、そうなのだろうか?筑紫哲也が雑誌?で取り上げたことで広く世間に膾炙したと聞いた気がするのだが…詳しいことは知らない。「新人類」だっけ?

 とりあえず、メディア現象と思う。ひろゆきさんも。今だと売れなくなった出版界の救世主的な。オピニオンリーダーがいるといろいろと好都合なのか?みたいな。

 で、そのメディア現象というものの持続性の問題がある。一過性なら、問題視するのも変な気がする。それとも、ぼくの知らないうちに若い人たちは決定的におかしな方向に進んでいて、後戻りできないようなところまで来ているのか?んな、ばかな、とおもうのだけど。

 なんの問題なのだろう?一過性の流行とは資本主義の問題なのかしら?それだと、問題はひろゆきさんではなく、資本主義なの?要は、松本人志さんを例にすると、いくらすごかったと言われても、十年、二十年もたつとなんのことやらさっぱりわからんという状態になる。宇多丸さんの松本人志評を、いつであったか?youtubeで聞いたとき、驚いたのはある世代まではものすごく人気があったのだな、と知ったからだ。でも、意外とそんなおじさん世代も、あまりその影響下にあるようにも見えなかったけど、ぼくの感覚が鈍いだけか。なんだろう?流行の賞味期限切れが非常に早いということか。それは資本主義がそうさせるのか?あるいは、科学技術の発展によるのか?そういうのがぼくにはさっぱりわからん。

 ともかく、問題をどう設定したらいいのかもわからないような状態。

 

 随分と当該論文と関係ないことを書いてしまったか?

 

 おおざっぱになにかをとりあえずカテゴライズするのは有効に思ったけど、まあ、「日常系」とか、「なろう系」みたいなカテゴリーにぼくは批判的なので、もうちょっと精緻にやってもいいのでは…とは思うが、そういっても、便利なのだろうから、これも難しい問題と思う。

 「解像度を上げる」みたいなことばが、まずもってよくわからん。

 

 やっぱ、ひろゆきさんの言動のどこに問題があるのか?そこが判然としない。著作に触れたことがないし、ツイッターもやってないし、(アニメ以外)テレビも見ないし。

 

 「冷笑系」というのはそんなに問題なのか?俗流社会論を展開すると、これもメディア現象でSNSで可視化しただけで、以前からそうだったのでは…というのは一定数、以前から「冷笑系」はいたのでは?と。

 

 あと、ひろゆきさんの言動よりも、ワクチン慎重派の言論を無視した、というか、陰謀論といっしょくたにしてやり込めたりするよーな問題のほうが重たい気がするな。戦争報道なんかも、かなり一方的であったし。言論空間の問題とするなら、むしろ、これらの問題のほうが、ぼくは気になる、といえば、気になる。が、社会というのはじっと見ていると疲れるので、目を逸らしがちですな。やっぱ、自分が「冷笑系」なせいか?「中二病」のほうが近い気がする。中二病冷笑系な側面があるのか。そういうことにしておこうか。

 関係ないことを思い出した。『おにまい』で「中二病」というセリフが出てきたけど、まひろがもみじに言っていたのか?でも、もみじは全然、中二病じゃない気がする。決めポーズをビシッとやるのが少々、中二病的という理解でいいのだろうか。

 

 ひろゆきさんの本も古典化するのかもですね。

冬アニメ メモ

 『ニーア』は最新回は記憶のお話でしたね。特に感想はない。

 髪の伸びた見た目2Bは別人格?

 お話の運び方、ある出来事と人格形成、これが記憶の問題として描かれる。

 リリィはもうほぼ人間と思うけど、人類が絶滅している設定は9S関連ということか。

 情報の整理がめんどい。