忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

先日の補足

 昨日はずぶんと春らしくなってきたと思い、薄着で出かけたら、帰路、寒さにくじけそうになった。暖かいものを食べたら、眠気に襲われ、健康的に早めに就寝したが、その分、早起きをしてしなければならぬことがある。そのすることとは日記ではないわけだが、先日の補足を残しておこうと思った。

 

 西山事件について

 訃報に際し、言うようなことでもないとは思いつつ、なんとなく書いたわりに、その書き方が異常に遠回しでわかりにくいものになってしまったので。

 わかりやすく書くと、国家機密より個人のほうが大事だと言いたかっただけ。それを「取材源の秘匿」と記述したことで、職業倫理のお話と誤解されても困るな、と思ったのだ。『不当逮捕』の中で描かれた立松という人も、ぼくはこの線で理解している。立松和博さんという人は最後まで取材源を秘匿した。権力闘争に利用されたと気づいていたとしても、口を閉ざした。それは職業倫理として規矩しただけ、と言えるのか。ぼくにはどうにも、それだけとは思えない。仮に騙されていたのだとしても、彼にその情報をもたらした人物のことが好きだったのではないかな、と。妄想です。でも、『不当逮捕』を読んだとき、そんな妄想をして実に、やくざな世界と思ったのだった。(別の意味で、マスメディアはやくざな商売と思うし、尊敬しているけど、十分、整理できていないし、今のところ、整理するつもりもない。あまり関心がないので。先日はどうもこのあたりをごちゃ混ぜにしてしまった。)

 西山さんという人はもっと権力闘争の渦中にあることに自覚的であったと思う。自発的とすら言えるかもしれない。彼はなにしろ政治記者であったのだから。しかし、そこを非難しようとは思わない。でも、やっぱ国家の機密なんぞより大事なものがあったのでは?という疑問、違和感がぼくには残る。なので、本田靖春の西山批判には肯けるところがあった。

 まあ、一般的に、ぼくが抱いた感慨は頭、桜並木な幼稚なものとみなされるであろうか。それで、一向に構わないが。右派はもとより、左派とも明確に背馳した主張になるのだろう。右派は私に公を優先させるのは当然なのだろうし、左派は国家権力の悪を暴くのが目的であれば、ある程度、手段は正当化されると考えるのだろう。程度問題となるのか。(その種の意見を今回、見かけた。)

 

 アニメ『ルミナスウィッチーズ』がおもしろかったのは、ジニーが人類側の戦力損失を度外視して、モフィーを仲間の群れに返したことだった。非常にいい作品だと思った。ジニーはミラーシャのいうように「バカ」なのかもしれないが、といっても、本当はミラーシャもジニーをバカとは思ってなさそうに見えたが、ともかく、孤独を知悉するジニーがモフィーを仲間のもとに返したいと考えるのはごく自然なことに見えた。人類の勝利なんぞより、モフィーのほうが大事なのだ。それでいいじゃないか。それがいいじゃないか。と前は言い切ってしまえたのだが、なんだかなあ。

 

 従軍慰安婦問題については教科書的知識しか持ち合わせていないが、彼女たちが仮に嘘をついていたとしても、なんの問題もないと言明している人がいた。国家と個人が鋭く対立するような状況に置かれたとき、個人は嘘をついても構わない、と。『共同幻想論』で「逆立」と書いたときから、この点において彼の主張は一貫していたと思う。彼は彼女たちが嘘をついていると考えたわけではないですよ、「仮に」嘘であっても全然、問題ないといったのであって。

 余計なお世話かもだけど、近頃は条件節とか、比喩に対する理解がない人がいるようなので。

 

 全然、関係ないけど、成田さんの微妙なつまらなさは「口に出してはいけないとされることは、だいたい正しい」で終わるところで、「という妄想によってぼくは廃人であるそうだ」とは続かない。幻聴なのか、どうか。幻聴というか、だれの声が聞こえたのか。

 でも、微妙なつまらなさに留まるのもいいのかもしれない。大事なことかもしれない。あえておもしろくはしないという態度になにを見ればいいのだろうか。

 

 日記を書いているうちにもうこんな時間になっていた。