忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

なにをどう見ているのか

 『安達としまむら』についてすでに書いてきたが、少し自分の好みに引き寄せて見ていたところがあった。なので、今後はその部分は楽しみつつも、少し修正が必要になったと思う。

 ふたりの間の認識のズレ。前のめりな安達とその様子に気づきながら自分からはその領域には踏み込もうとしないしまむら。きっとこのズレは独白の部分にも表れてくるだろう。しかし、これは大問題だ。ひとによっては封印されねばならない黒歴史であるだろう。

 ただ、ぼくの好みに引き寄せたと言ったもののこの作品の醸し出す寂しさはあるのだと思うし、なぜそう感じさせるのかは引き続き考えてみたい。これまでは孤独ということと関連付けていたが、孤独というものをもっと仔細に見ていってもいいかもしれないし、今後の描写次第ではもっと違うものかもしれない。

 それと今後注目していきたいとおもうのは安達としまむらのことば遣い。また1話から見てみようかなとおもっているのは、このふたりはふたりだけでいるとき話し方については1話から変化がない?そのへんは意識して見ていなかった。親疎の変化が口調の変化となってあらわれるのか?自分のことを考えるとそれはあるように思う。

 

 『蒼穹のファフナー』の何が分からないのか

 皆城総士真壁一騎遠見真矢の3人は幼馴染なのか?どうして、真矢は総士には泣きつき、一騎にはお礼を言うのか?

 皆城つばきってだれ?織姫の母と言ってるのだが。1期見ないとダメなのか?このへんをウィキの知識で補って見るというのはどうにも気が進まない。なぜ?って、1期見る予定なのでということに尽きるのだが、果たしてその機会は訪れるのだろうか。

 これがぼくの祝福と言いながらフェストゥムを倒しまくっているのはどういうことなのだろう?堂馬広登と立上芹はフェストゥムとの共存を模索してる様子が描かれていたので、島の総意のだよねと思っていたが、違うのか?それと、ビヨンドを自分が勘違いしているのかもしれないが、一騎と総士フェストゥムみたいなものではない?

 国連軍は共存の道は探らないので交戦規定αとかいうのを発令していて、島の住人と対比させていると思ったのだけれど、違うんだろうか。

 エクソダスもビヨンドも掃除をしながら見ていたのが失敗だったな。

 コロナ禍で思ったのはエヴァ使徒ってウィルスっぽいとか思ったのだけれど、まあ、違うか。フェストゥムはもっとウィルスっぽいな。人間の進化?みたいなものを促しているようでもあり、まあ、例によってあまりよくわかっていない。

 また、書き忘れるところだった。

 エンディングで総士の独白がはいるが、いつもなぜあんなに絶望に満ちている感じなのだろう?ばたばたと人が消えていくから仕方ないとは思うけれど・・・・まあ、でも面白いな。面白いから見てるいるのだし。

『神様になった日』

 もしかして、ギャグ回と思っていたものは佐藤ひなの能力を紹介する回だったのだろうか。ちゃんと見ていないのでもしそうなら今後よくわからんとかなりそう。この手のアニメ、視聴を継続が困難になるケースに該当しそう。

 そっちに気を取られると、仕掛けてある不自然な描写があったとして、それに気づけずという具合に。複数回見直すことで解消していくしかないのか。

忘れそうなので書いておこうの続き

 『安達としまむら』の話の続き

 なぜ誰にも語らないようことをぶつぶつと自意識はかたるのかについてはこれからもすこしずつ考えていきたい。

 安達にしても、しまむらにしても、あれだけたくさんのことばを費やしながらも、きっとほとんど相手に伝えることなく、いずれは彼女たちの記憶からもそのことばは消えていく。本当に不思議なことをしている。

 そのだれにも伝えられず、消えていったことばたちがひとの孤独になっているのではないのか。人知れず、消えていったことば。なぜそんなことを考えたのか。大した話ではない。ぼくがあるひとのことを分からない、すっかり分かることはないと感じる時、その分からない部分というのはそのひとが自意識で語っていることなのではないかなと。でも、これはまたこれで不思議である。語られることはないであろうと直覚しているはずなのに、それを知りたいと思う気持ちをぼくは抑えられない。

 これ以上書いているとわけがわからなくなりそうなので、今日はこのへんで止しておこう。

 

 この日記のことばもそうで、すでに始めのころに何を書いていたかなんて覚えていないわけだが、書き留めておいてよかった気がする。今のところ読み返す予定はないわけだが・・・・そういえば、当初の目標はこれっぽちも達成されていない。無私へ至る道として日記をはじめたのに。はじめから意図的に「ぼく」という一人称を多用していた。この「ぼく」ということばが出てくる回数が減っていき、なくなるころにはそうなっているといいなという馬鹿な試みだったのだが、これは大失敗だった。意識しすぎて、今に至るまで一向に減る兆しが見えない。なので、この点は、しようがないと諦めつつ、これからも「ぼく」を使い続けるのだろうとぼくは思う。

 

 『安達としまむら』で他に気になっていること。

 学校内で生活の描写が少ない。さぼっているから仕方ないのか。学校だからこそおきる人間関係のあれこれ、あるいは学校行事にまつわるあれこれは出てこないのだろうか。とすれば、それはすごいことだなと思う。学園物ではないのだろう。

 

 家族が出てきている。我ながら変なところに興味を持ってしまった気がするが、安達もしまむらも家族といるときとふたりでいるとき、あまり変化が無さそう。ぼくはこれははっきりと違うので、なんだか彼女らに対して敬意のようなものが生まれた。接する人によって態度を変えるとか、変えないとかいう話では無論ない。

 

 さぼっていることへの後ろめたさのようながなさそうでそこがいい。いや、あるのかな。この点は今後も注目。

『安達としまむら』以外で気になっていること

 『リゼロ』

 エキドナはなぜスバルに関心を持っっているのか?

 

 サテラはなぜスバルに執着するのか?

 すさまじい執着。現実世界のスバルに執着していたことよね?

 

 ちゃんと見ていなかったので、実はすでに示されているのかもしれない。

 

 『ファフナー

 ところどころ理解できない。1期見ないとこれはらちがあかないのかもしれない。

忘れそうなので書いておこう

 『安達としまむら

 面白い。以下、良かった点、気になった点、箇条書き

 

 ・ヤシロ

 言葉遣いが丁寧でいい。

 宇宙人なのか、妖精なのか。不明、人間ではないことはなんとなく分かる。

 

 ・なぜカラオケなのか?

 島村「私はカラオケ」

 この時点で、え???となり、

 「人前で歌うのは苦手なので」ふたりで歌うことに。

 なぜ島村はカラオケに行くことを提案したのか?

 気になるような、気にならないような

  加えて、安達はしまむらの提案だからカラオケを選択したのか?

 

 ・安達、お前もか?

 前回までの段階で、しまむらは酔えない人、安達は酔える人と勝手に予想していたが、安達もそうなのか?

 いや、それはふたりともどっちでもいいのか?なんとなく、どっちでもいいのかもしれないとは思う。

 ぼくはこの作品についてはふたりがお互いのことを自意識の中でどうのように語り、それを相手には告白しないことでなにかすごいものを僕に感じさせてくれる、と今から期待で胸はいっぱいである。もっと、聞かせてくれ君たちの心の声を。きも・・・・

 

 ・4人は友達?

 無粋な人間なので聞いてみたいです。

 「君たちは友達?」って 

 「と・・・も→だ→ち↑?」と

 自信なさ気に答えてくれるとすこし嬉しいかもしれません。

 

 ・要するに好きってことなんだろうな

 「忘れがたいてのは、つまり好きってことなんでしょうね」と吉本のことば。このときもいいなと思ったけれど、安達のっそれもいいな。

 安達はそれをいずれ伝える日が来るのかもしれない。

 でも、そのことばは声にして、あるいは文字にして伝えなくてもきっといいものであると思える。

 

 とんでもなく話は飛躍する。

 吉本隆明武田泰淳

 安達としまむら

 前総理大臣とニュースでよく話題にされていたお友達

 ぼくはこの三組を横に並べてみても違和感はない。うまくことばにできないことはもどかしいがなんとなく書いておこう。

 

 それはそれとして、なぜ自意識は語り出してしまうのか・・・・そのことは気になってる。

 しまむらが安達を語り、また自分のことも語り

 安達がしまむらを語り、また自分のことも語り

 でも、その内容をお互いに伝えることはきっとない

 このことの不思議さ。

  なぜ誰かに伝える予定もないことを語っているの?

 あれ?この日記自体そういうものであった・・・・

 

 

 

それを倫理というなら、異論あり

 何の話かというと『鬼滅の刃』。

 妹を連れて、どこかふたりで人里離れた山奥で暮らす話なら、あまり異論はないかもしれない。でも、これでは面白くはならないのだろうか。きっと、面白くないな。バトルにならないし、仲間も増えない。小学生からたくさんの苦情が来るに違いない。

 それでは柳田國男の『山の人生』に出てくる話はどうだろうか。

  あと『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』をまた見直してみようかと思った。

 

それでも自意識は語りだす

 なんか『俺ガイル』のアニメのタイトルっぽい感じにしてみた。

 

  ああ おまへはなにをしてきたのだと

  吹き来る風が私に云ふ

 

 有名な詩のこの部分

 これは自意識の語りだったのだろうかと帰り道で思った。

 

 なぜこんなことを思ったのか。「軟弱だぞ、安達」のせいである。

 『安達としまむら』がやっぱり面白い。

 独白というのか、自意識の語りというのか、そういうたぐいのもの。

 島村は「酔えない」のかもしれない、そんなことを思いつつ、見ている。雪ノ下陽乃の言った「君は酔えない」にいまだにひっつかかっているということだろう。漱石の「人の世は住みにくい」というひと言につきるのかもしれない。それでも、これからも、この問題をめぐる多くの作品における様々な表現をぼくは何度でも楽しんでいくのだろうと思うと泣けてくる。

 しかし、まだ3話なので島村が「酔えない」ひとという結論は先走りすぎか。

 それとETだよね、あれは。ETってどんな話だったか、もう覚えていない。

 出てくる宇宙人とは無関係だろう。自転車に乗っているのは安達と島村だし。

 

 この『安達としまむら』の他には今期は『神様になった日』と『蒼穹のファフナー』再放送は見ていこうと思う。『魔女の旅々』(この文字列予測変換に出てこない)はどうしようか。『俺ガイル』が終わったら、あまり見ることもなくなるとぼやいていた割にはなんだかんだアニメを見ている。

 『神様になった日』は『エンジェルビーツ』、『シャーロット』と原作者が同じらしいが、『エンジェルビーツ』は強烈な印象が残っている。当時のオタク少年(自称)に勧められて見たのだった。ただ、途中で何度も視聴を挫折しかけた。『灰羽連盟』に似ているという評をネットで見たが、ぼくにはあまりそのようには思えなかった。

 それで思ったのだが、ぼくもそろそろオタクを自称できるようになったか、どうか。くだんのオタク少年に偶然街で出くわしたとき、ぼくもオタクと自己紹介できるか。それとも、当時すでにぼくはオタクと傍からは見えていたのか。オタクがなにであるかをわからぬままに話を進めているのだが、人生とは悲しいもので、そのオタク少年がオタクである自覚を失っている可能性がある。ぼくの中高の同級生だった映画好きだった彼は大学生の時にすでに映画を見なくなっていた。そして、今ではぼくもあまり映画を見ない。