忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

忘れそうなので書いておこうの続き

 『安達としまむら』の話の続き

 なぜ誰にも語らないようことをぶつぶつと自意識はかたるのかについてはこれからもすこしずつ考えていきたい。

 安達にしても、しまむらにしても、あれだけたくさんのことばを費やしながらも、きっとほとんど相手に伝えることなく、いずれは彼女たちの記憶からもそのことばは消えていく。本当に不思議なことをしている。

 そのだれにも伝えられず、消えていったことばたちがひとの孤独になっているのではないのか。人知れず、消えていったことば。なぜそんなことを考えたのか。大した話ではない。ぼくがあるひとのことを分からない、すっかり分かることはないと感じる時、その分からない部分というのはそのひとが自意識で語っていることなのではないかなと。でも、これはまたこれで不思議である。語られることはないであろうと直覚しているはずなのに、それを知りたいと思う気持ちをぼくは抑えられない。

 これ以上書いているとわけがわからなくなりそうなので、今日はこのへんで止しておこう。

 

 この日記のことばもそうで、すでに始めのころに何を書いていたかなんて覚えていないわけだが、書き留めておいてよかった気がする。今のところ読み返す予定はないわけだが・・・・そういえば、当初の目標はこれっぽちも達成されていない。無私へ至る道として日記をはじめたのに。はじめから意図的に「ぼく」という一人称を多用していた。この「ぼく」ということばが出てくる回数が減っていき、なくなるころにはそうなっているといいなという馬鹿な試みだったのだが、これは大失敗だった。意識しすぎて、今に至るまで一向に減る兆しが見えない。なので、この点は、しようがないと諦めつつ、これからも「ぼく」を使い続けるのだろうとぼくは思う。

 

 『安達としまむら』で他に気になっていること。

 学校内で生活の描写が少ない。さぼっているから仕方ないのか。学校だからこそおきる人間関係のあれこれ、あるいは学校行事にまつわるあれこれは出てこないのだろうか。とすれば、それはすごいことだなと思う。学園物ではないのだろう。

 

 家族が出てきている。我ながら変なところに興味を持ってしまった気がするが、安達もしまむらも家族といるときとふたりでいるとき、あまり変化が無さそう。ぼくはこれははっきりと違うので、なんだか彼女らに対して敬意のようなものが生まれた。接する人によって態度を変えるとか、変えないとかいう話では無論ない。

 

 さぼっていることへの後ろめたさのようながなさそうでそこがいい。いや、あるのかな。この点は今後も注目。