忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

あまりお正月らしくないことなど

 毎年のことではあるが、お年玉を頂戴することがなくなって以来、とくにお正月を意識することもなくなったというわけでもないが、ともかく、いい加減なものである。

 

 たしかに、いわれてみると参拝の作法などぼくがこどものときでもうるさく言われなかった気がする。二拍と手の延ばせる範囲に音のなる装置、鈴などがあれば、それを力いっぱいにカランカランと鳴らして、二拍してお願い事をする感じで、とくにお願いもないので、なんとなく目をつむっていた気がする。

 ご焼香の回数などもいつごろからややこしいことになったのだろう。こどものときは前の人をまねしていただけだった。

 卒業式のときもそうだった。証書授与のアレ。どこかでだれかが間違ったら、たぶん、それ以降は間違ったまま進行していたのではないか。今更、検証もできない。たぶん、そういうコントもありそうだが、なにぶん、その手の番組をあまり見ないので、知らない。わざと間違って以降の人の行動の変化を観察していた人とか世の中にいるのではなかろうか。

 「偽文化」というのはけっこうありそうだ。

 というか、広告代理店文化に対するある種の揶揄はその文脈で行われるものという印象がこれまであったが、最近ではもっぱら「中抜き」批判のようである。

 ただし、広告代理店文化は都市流入民に対する道しるべのようなものではあったのだろう。お話はズレるが、祖父は映画というものに憧れの生活を見ていたと言っていた気がする。

 えっちなコンテンツの氾濫は文化を豊かにしたのか、貧しくしたのか。両面あるというだけの話か。

 広く膾炙するという点では豊かにしているが、それに伴い画一化していくみたいなもっともらしいまとめは不要だろう。

 いずれにしろ、メディア的現象のほうにお話がズレていってしまった。

 とくにオチはない。

 

 「なろう系」における後悔について

 整理を目的に書いてみよう。

 あの時、ああしておけばよかった。というのは自分の前には比喩的に分岐した道が広がっている。そこで自分は過去に誤った選択をしたということになると、回顧の問題になる。選択時からその先の視点の導入が要る。

 しかし、ぼくの観察した限りではそのような後悔だけではない気がしている。

 めんどいので結論らしきことから書いてしまうと、なぜ間違ったのかも、なぜうまくいかなかったかも、それがなにに起因するのかも、すべは漠然としているが、ともかく後悔だけはあるという感じ。

 スバルの「死に戻り」はそんな風に見える。「なろう系」ではないが、『まどマギ』のほむらの「時間遡行」も。

 finalventさんのご指摘通りで、「なろう系」は異世界転生であるから、そこに現世経験が関係するというのは大事な点である。『まどマギ』『シュタゲ』にはない要素である。スバルも、ルーデウスも現世でも、異世界でも、やっていることの本質は変わらない。どちらも泥くさく生きている。

 『リゼロ』と『無職転生』の異世界生活をうまくいっていると見るのが妥当であるかは断言できないけど、ともかく、うまくいっているとして、現世ではどん詰まりであったのになぜ異世界ではそうではないのか?その差、ズレというものがなにを意味しているのか。

 どちらももがき苦しんでいることに変わりはないのに、非常におもいしろいというか、不思議だ。

 

 最近、見たのだと『マブラヴオルタ』がちょっと難しい作品だった。なんて言えばいいのか。分岐しているストーリーをさらにメタ視点から見ている感じ。香月がその際の語り手。原作では香月視点のストーリーとして独立していたのか?と思った。ノベルゲーなので。で、これがちょっとおもしろいのはなんか予め後悔しているから、惨事になっても平静を保てている感じがある。香月はだれが生き残り、だれが死ぬのかを知っている?というか、ぼくは原作を知らないのだが、たぶん、霞は死ぬんだよね…、そして、香月はそれを知っているんだよね…という。

 その「あらかじめ後悔している」というのは文字化するといかにもありえそうな気がするけど、実際にはできない。未来を予想することはできるけど、実際、どうなるのかはその時になってみないとわからんので。ただし、偽装は可能で、『マブラヴオルタ』も疑似回顧なのだと思う。

 後悔と疑似回顧。人間の頭って変なことを考えるようにできている気がするみたいな。

 もう今日はめんどいので、この辺でやめよう。

 

 ついてでに『恋愛フロップス』の最終回を見たので感想を書いておこう。と思ったけれど、特になにもないかもだった。

 「モンファ先生」と心の中で叫び、アイを回想するのは変だと、整合しないと以前、書いたが、結末を見るとこれはぼくの誤りであった。ただ、あの時点で変だと感じのは言い訳ではなく、仕方ないのないことであったと思う。最後、5人のAIは復活しているので、朝は彼女たちにアイの影を見ているのだろう。なので、あのシーンは結末とは整合している。

 なんのお話であったかはよくわからないが、朝とアイには互いに後悔があったというか。前半のお下品路線から推測するとえっちなことをしておけばよかったとなるのだが、それでいいのだろうか。

 (恋)愛と死を描いていたと大雑把に記しておこう。

 

 作品鑑賞における考察について

 考察は作品にばらまかれた謎の解明と先の展開の予測のふたつなのか?

 私見では、それらは作品解釈の根幹というよりはその補助線と思う。先の展開の予測については、はっきりいえば、なにをしているのか?自分でも、よくわかっていない。

 作品解釈もいくつも並べるというよりは根拠を示しながら、ひとつに絞っていく感じと理解している。あらゆる可能性をひとつずつつぶしていく感じ。

 『エヴァ』をディスる意図はないが、作品本編以上に膨れ上がった考察は、作者が答えを用意しないことで成立しているように見えるが、ぼくには奇異なものに見える。で、ある種の衒学趣味から、その種の考察を誘い、答えのない問題に答えらしきものを積み重ねていくのは解釈とは違う、とぼくは思っている。

 異論、反論はありましょう。

 

 なんかすすめられた動画を見て

 ぼくみたいなことを言っている動画があるといわれて、素直に薦めにしたがって見たら全然、違ったという愚痴。一緒にしないでほしい。なお、有料部分は見ていない。ケチなので、無料部分だけ視聴した。それだけでおなか一杯になったということでもある。

 まず、ぼくは対談、鼎談式ネット番組が好きじゃない。なので、おすすめされても困る。いや、ちょっとおおざっぱすぎか。とって出し形式?生放送のアーカイブなのか?そういうライブ感?みたいなものが好きではないのか?

 なんだろ。

 世直しとして機能している説の代表的論者として宮台さんを見ていない。島田雅彦さんなど、他にもいるだろうし、世間にはそう思っている人が一定数いるだろう。で、ぼくはこの世直しとして機能している説と同様に、テロリストの動機をそのまま報道することはテロの肯定という論に対しても違和がある。

 どちらにも飛躍がある。一緒にしないでほしい。おそらく、そういう論者も同じように考えるはずなので、お互い様である。なお、ぼくはそういう飛躍自体は嫌いでもない。しかし、それが説得力を有するには状況で担保するか、文章、ことばで幻惑するかしかないと思う。

 まあ、ぼくの説明がヘタクソなのかもだな。めんどーだけど、いちいち、細かい違いをこれからは言おう。あーめんどくせー。

 あと、やっぱ五輪疑獄に関する反論の精度もおかしいと思った。安倍さんが「瓶のふた」であったので、そのふたが外れたとたんに検察が動き出したという主張に対し、検察の動き出したタイミングから、それはないというのは反論になりうるのか。検察は捜査自体はずっとしていると思うけど。検察の捜査状況を詳細に知っているでもない限り、その種の言説が宮台さんへの有効な反論になっているとは思えない。

 というか、ぼくはそもそも、ぼく自身がそこらへんにいる普通の人なので、例えば、新聞に載っている情報以上のものを知りようがないのだから、表に出た情報のみで基本的に判断する。はっきりいってしまえば、出所不明な内部情報のようなものはノイズにしか思えないので、それを根拠とした反論もノイズと思う。

 やっぱ、ぼくはある種のネット言説に触れると脱力します。

 つーか、ぼくにとっては、どのような立場にたつのであれ、ワクチンに言及しなかった人たちは言論人には見えません。これはぼくの勝手な基準なです。